獅ノ入ると失業者は四十万人を越した。
「これらすべてのことは何を告げるか? 世界市場の争奪は一層はげしくなるであろう。それは、とりも直さず、第二次世界戦争の危機を増大するであろう」
――三十日の晩、ベルネのうちでの会話にしろ、「リュマニテ」が告げているこれらの事実にしろ、蜂谷良作のたすけなしには言葉の不自由な伸子にわかることでなかった。
伸子の夕食前の散歩は、少しずつ時間を早められた。クラマールの畑の道を森へ歩きながら、ある午後はサン・クルーの通りから、蜂谷の住居のあるサン・トアンのしずかな通りを通りぬけ、また戻って来て、妙に空屋のような感じのするその家の二階の、蜂谷の質素な部屋で話したりした。
佐々のうちのものが、十月二十四日にパリを立っていたことはよかった。建築家として大規模な仕事に関係している泰造は、この恐慌の間接な余波を、何かの形でうけずにすまないことは明瞭だった。多計代が自家用の自動車にのり、伸子が少女時代にすごした佐々の家庭とはまるでちがった空気の中でつや子の少女期が送られているのも、第一次大戦中日本の船会社が莫大な利潤を得たことと無関係ではないのだ。
ウォール街の恐慌が、世界の資本主義そのものの上にあらわれた不吉な斑点であって、それは次々の矛盾のばくろ、ファシズムへの結集、戦争、やがてはそのような全体制の崩壊を予告しているものであるということを、伸子は承知しないわけに行かないのだった。
散歩のとき伸子は、蜂谷良作に、
「これをあげるわ」
と、一つの白い封筒をわたした。
「なに?」
半信半疑で伸子の顔を見ながら、蜂谷は、手のひらの上におかれた封筒を眺めた。
「いやに軽いんだな」
「きれいなものよ」
ゆっくりした歩調で歩きつづけながら蜂谷は、封のしてない封筒をあけて、その中から、白い小さい紙につつんだものをとり出した。
「何だろう」
なかみが出て来る段どりを面白がりながら、伸子はまた、
「すてきなものよ。きっとあなたは持っていらっしゃらないものだと思う」
「――わからない」
蜂谷は、太い指さきで、小さくて白くて全く薄べったい長方形のつつみを大事にひろげて行った。
「ホウ!」
「きれいでしょう?」
伸子は、思いがけないもので蜂谷良作をおどろかした愉快さと、ほんとにそれは美しいと思っているこころの満足から、無邪気に笑った。
「もっていないでしょう?」
「もっていない」
それは、ソヴェト同盟の三〇カペイキの郵便切手だった。さっぱりした長方形の水色地に、アジアとヨーロッパの地図が白く出ていて、そこに地球の六分の一を占めるソヴェト同盟の全領域が、いきいきと目にとびついて来るように鮮やかな赤で刷り出されているものだった。
「こういうものまで持って旅行しているのかな」
「これはほんとに気に入っているの。だからペン箱に入れてもっているんです」
小さい美しい一枚の切手を見ている蜂谷の顔は大きく見え、それをのせている手のひらも大きく見えた。
「ちょっとみてもきれいでしょう? よく見るともっといいのよ。こまかいところまで、ほんとの地図よ」
「なるほど、こんなところの、でこぼこも、ちゃんと出ている」
中国の海岸線の部分を、蜂谷良作はそこを実際に知っているものの興味を示して検査した。その切手にあらわされているヨーロッパの東の部分から先にあるフランスはぬけているのだった。
「日本よ、お前は海にはられた一本の弦《つる》。どっちから風が吹いても、鳴らずにいられない。――ほんとにそう思うでしょう?」
伸子は、また紙の中にしまわれてしまう前に、往来に立止って、蜂谷良作の手の上にのせられているそのきれいな切手をのぞきこんだ。
六
伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から思いがけない手紙をうけとった。佐々の一行は、予定どおり十月二十七日の朝、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ到着した。電報でその時刻を知らされていた素子が、停車場へ出迎えた。そして、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を通過する旅客がそうするように、その日の夜シベリア鉄道にのりつぐまでの時をすごすために佐々一行を、大使館へ案内しようとした。ぶこちゃんの予定も、そんな風に云ってよこしていたから、と素子はその手紙に書いているのだった。ところが停車場にはどういう手筈《てはず》になっていたのか、素子のほかに大使館づき陸軍武官の藤原威夫が来た。
国際列車が北停車場《セーベルヌイ・ボクザール》のプラットフォームにとまると、背広を着た陸軍少佐の藤原威夫は素子の先にたって、佐々一行の乗っている車室を見つけ、手まわりの荷物の世話をやき、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では数が少くてつかまえるのに困難なタクシーまで
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