ナ世界中を震い上らせるんです」
 パ、ニ、クとひとこと、ひとこと、唇の間からにがい種でもほき出すようにおばあさんは云った。
「しかし、お宅の職業は安全率が多いですよ」
 蜂谷はパンをたべない民衆はないし、現代では洗濯は日常の必要になって来ていると云った。
「民衆生活の必要に結びついた職業は、いつもつよいです」
「そこですよ! 教授《プロフェスール》、アチヤ」
 主人のベルネは満足そうに、椅子の背にぐっともたれて両方の脚をテーブルの下にぐっとつき出しながら肯《うなず》いた。フランシーヌが今にも鼻声の出そうな眼つきをして頸をくねらせ、母親へ目まぜした。細君はとりあわない。フランシーヌは日ごろから、親が洗濯屋だということを、いやがっているのだ。
「われわれの商売は、そりゃ正直な商売ですさ」
 食卓のまわりの話題は、いつか、燃料がたかくなって洗濯業の儲けはいよいよ減って来るという話に移って行った。それからまたアメリカの恐慌にもどって、日本の生糸、絹織物の輸出は当然大きい打撃を蒙《こうむ》るだろう。ヨーロッパで最も直接の混乱におかれるのはドイツであるという蜂谷の話になった。ベルネの一家は幸いドイツ人でないし、アチヤは教授であり、マドモアゼルは作家であって、日本の絹の輸出商でなかったことは何よりだった。ベルネ家の、味のよくない葡萄酒つき晩餐は、そういうところで終りになった。

 ともかく自分たち一家に急な打撃が来ないとわかると、ベルネの人たちは、赤い手のおばあさんからフランシーヌにいたるまで、恐慌に対して全く平静になった。おばあさんが梨をひろって、ヴェランダのガラスの中へ乾しているいつもの前掛姿。晩餐のテーブルへつきながら伸子の食慾までそこなうような物懶《ものう》さで、鼻声を出すフランシーヌ。
 伸子は、朝ごとの新聞の報道によって、こんどのウォール街の恐慌は、ウォール街の歴史がはじまって以来最大のものであるということを学びつつあった。四十階の建物の上からウォール街へ身を投げて死ぬのは、暴落のショックによって錯乱した女仲買人だけではなかった。ニューヨーク市カウンティ・トラスト会社の社長がピストルで自殺した。しかし大銀行家たちとフーヴァー大統領とは、どうかして愚図ついていた。やっと「資本・労働協約《キャピタル・レーバア・パクト》」が発表されたが、それは結果において、アメリカの大資本たちに(鉄道王・石油王・自動車王などに)銀行利子の引下げと、一年一億六千万ドルの所得税免税を許しただけのことであり、労働者はグリーンやウールのおかげで賃上げのたたかいを禁止され「労働者はあらゆる自分たちの問題の解決に際して、あらゆる途を講じて産業側と協同」することを約束させられただけのことであった。この協約《パクト》は、経済安定のために新しく八〇億ドルの新事業に着手することを予約しているけれども、これは当座の見せかけで実現しないであろうし、恐慌は救われず、単によりゆるやかな形に変ってそれを引きのばすにすぎない。なぜならば、フーヴァーと大資本家の計画が実現するものとすれば、このたびの恐慌によって暴力的解決をよぎなくされた原因そのもの――社会の生産力と消費力との不釣合――が、八〇億ドルの生産増進によって、ますますその不釣合を鋭くすることにしかならない。「リュマニテ」は「フォードのデマゴギー」という大きい見出しで、自動車王フォードの厚かましい声明を分析した。フォードは恐慌の進行していた十一月二十一日、いきなり、フォードの会社は、十五万人の従業員に対して賃銀を引下げるどころか、むしろ賃銀を引上げるだろう、そして自動車の価格も下げるだろうと発表した。フォード自動車会社は、労働者の初給五ドルを六ドルに、これまで働いている労働者たちの最低賃銀を六ドルから七ドルまで引上げる、と。しかし現実におこったことは次のようだった。フォードは、よりやすい新型自動車をつくるために模様がえをするという口実で、大部分の工場の作業を中止した。そして、もう必要のない職場の労働者数万をほうり出した。世界に名のひびく殺人的な合理化で四、五年間働かせられているフォードの労働者は、次の雇いてを見出すのがむずかしい。彼らがすっかり搾りあげられてしまっていることは周知であるから。
 フォード自動車がやすくなるのは、フォードにくっついて生きている何万人という販売者たちの手数料が二〇パーセントから一七・五パーセントに切下げられたからであった。たとえば二五ドルやすくなったフォード一台について、手数料のやすくなった販売者たちの負担はその二五ドルのうち一七ドル半。フォード会社はただの七ドル半を背負うにすぎない。販売者たちの負担で、これまでより貧しくなった人々の財布から、フォードはこれまでよりも儲けようとしているのだった。十一
前へ 次へ
全437ページ中316ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング