ニじゃないのかしら」
「大体そういう意味だといってもいい。しかしこまかくいうとドイツ語では英語のエレメンタルというよりも、もっと複雑で有機的な内容なんだが……」
「あたりまえの言葉でノートさせていただけないかしら。どうせ経済学者になるんじゃないんですもの。たとえば、『資本主義社会の富は、集積された商品の形であらわれるから、一つ一つの商品は、その富のエレメントにあたる。故に』っていう工合で間違っていなければ、その方がわかりいいんだけれども――」
 蜂谷は苦笑して、柔らかい自分の髪を撫で、椅子の上で脚をくみ直した。もし蜂谷がもっている本をそのまま読んでノートするのなら、それは二重の手間だ、と伸子は考えたのだった。じかに、その本を借りて読んで、解釈してもらえばいいのだから。――でも、そこまでいうのは蜂谷を侮辱するように思えた。
「あなたは、案外せっかちなんだな」
 冷静な意志で、はねる馬をくつわで導いて行こうとしているように、蜂谷が云い出した。
「こういう厄介なものの勉強は、直感的な文学とちがってね、どこまでも理詰めにやって行くしかないんだ。ある区切りまで先ずノートして、それから細部の解釈に入るのが、普通のやりかたなんです、平凡だけれどもね。これから、使用価値とは、どういうものか、というような説明もはじまろうというわけだ」
 伸子は、おとなしくなって、蜂谷の言葉をきいた。
「佐々さんの理解力はおどろくほど範囲がひろいけれども、こういう分野は、云ってみれば未開墾だから――しばらく辛棒してごらんなさい。あなたのようなひとには、やっぱり理詰めの分析に興味が湧くにちがいないんだ」
 そういうわけで、第一日の四時――五時半のうちに、伸子は、使用価値とか交換価値とかいうものの本質について、混同しぼんやりしていた理解をいくらか整理させられたのであった。
 第二日目は「そこで商品をその使用価値から離れてみるとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである」からはじめられた。いろいろな労働の有用性だの具体的な形態だのから「すべてが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元され」人間労働力の支出の凝結が価値である、ということを、伸子は、一歩さきはどうなっているのか見当のつかない嶮岨《けんそ》な山道をのぼって行くような困難さで、のみこもうとするのだった。
 それにしても、と伸子はノートしながら考えずにいられなかった。ウォール街の恐慌は、どうしておこったのだろう。そもそも恐慌とは? 十月二十九日のウォール街で一千万株投げ出されたという株とは何だろう。伸子は恐慌ということは、もとよりあらましは知っているつもりでいた。株についても。ジェネラル・エレクトリックが一九二九年最高四〇三だったのに十月二十九日には二五〇に下って低落三八%、スティール・トラスト二六一3/4が一八五1/2、クライスラー自動車一三五3/4が三九3/4で七一パーセント惨落した。これが株をもっている人々に損をさせる事実であることもわかる。「リュマニテ」は書いていた。「ヒルファーデングの仮面ははがれた」「『組織化[#「組織化」に傍点]された資本主義の計画的[#「計画的」に傍点]経済』は二百五十億ドルの損失によって、労働者・技師・勤人・中小企業者・農業家・数百万の小投資者の生活を破滅させつつある」と。
 このパニックで、真に破滅させられたのは小さい投資家たちとその家族――働いてためた金を株にかえた数百万のあたりまえのアメリカの人たちとその家族であり、億万長者のモルガン一家はおそろしい混乱を通じて益々富を集中しつつある。ここに血が引いてゆくような資本主義の非人間性があった。字として、恐慌や株やを知っていたはずの伸子の眼の中に、きつい火を点じさせ、全身にいきどおりを伴った探究欲を刺戟しずにいない社会生活のうめきがあるのだった。
 伸子は、ノートを早めに切りあげてもらった。そして、けさのニュースについて話しはじめたとき、まるで、日本語がわかりでもするように、台所と食堂との境のドアがあいて、ベルネのおばあさんが愛嬌よく入って来た。そして、蜂谷に、夕飯をみんなと一緒にたべて行くようにすすめた。
「ムシュウ・アチヤ、お引越しになっても、あなたがわたしたちの御親切な友達であることに変りはございませんよ」
「ありがとう、マダム。おことわりする理由をもちませんよ」
 ベルネの家の夕飯は七時だった。
「しまりやのお婆さんが招待するなんて、めずらしいな。何かあるんだろうか」
 食卓の用意がされる間、伸子と蜂谷とは家を出て、前の通りを畑の方へ散歩した。ベルネの家で客間がつかわれるのは一年のうちにいくたびだろう。閉ったドアの内部の様子はわからなかったが庭に面した鎧戸がしめられている客室のヴェランダの床には梨が並べられるき
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