「た判断の誤っていなかったことを、伸子にしっかりと確めてゆくのだった。
――みんな、ほんとだった。――
この確認は、伸子の精神をまじめにした。同時に、この理性の確認は、段々つよくなるよろこびの鐘の音のようなものを伸子の裡に鳴りたたせた。
――みんな、ほんとだった――
この中には、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮した二十二ヵ月がほんと[#「ほんと」に傍点]であり、いま、伸子の喉をつまらせている感動が、人間としてほんと[#「ほんと」に傍点]のものであるという思いがこめられている。
伸子は英字新聞「エクセルショア」をもったまま、梨の木の下をあちらからこちらへ、こちらからあちらへ、と幾度も歩いた。伸子は素子と抱きあって、きつく互をしめつけたかった。ウォール街が曾て知らなかったという恐慌は突発したのではなくて、より理性的な人々によって予告されていたものであった。この事実は、世界の歴史の上に新しい智慧の力がもたらされているという現実を告げることだった。伸子は、そこに、きわめて現実的であって、そのために一層たしかで美しいものの存在していることを、感じずにいられないのだった。
四
午後四時に蜂谷良作が訪ねて来たとき、二階までそれを知らせに来たベルネのおばあさんが、一段一段階段を降りてゆくそのあとについてゆくのが、伸子にはまどろしかった。
蜂谷は、食卓として使うときのほかは掛布《クロース》のとられている食堂の楕円形のテーブルのよこに立って、何だかいそいで歩いて来たような顔つきだった。
「こんにちは」
彼らの間の習慣になっている握手なしの挨拶で、伸子は、
「いかが?」
誇らしいような、いたずらっぽさで輝やく眼をした。
「『組織された資本主義』は、いかが?」
「――相当のものらしいね。読みましたか」
「よんだって、わたしには分らないところだらけだけれど――でも当ってよ、『一九三〇年は包括しないであろう』が……」
夏のころ、コミンターンのブハーリンに対する批判の出たあと、蜂谷と伸子とは、ヴァルガのその予告について話したことがあった。蜂谷は革命や経済の諸段階は具体的だからその一つ一つについて見られるべきで、飛躍した断定は保留つきでよむべきだ、と云っていたのであった。
「……もうすこしはもつだろうと思っていたんだが……」
「早くて残念?」
「そんなこと。――スタンダード・オイルの株主じゃあるまいし……」
少しおこったように蜂谷は煖炉側の椅子をテーブルへひきよせてかけた。そして、ポケットから一冊の仮綴《かりとじ》の本をとり出し、表紙を下にして、自分の前においた。
その日は、伸子と蜂谷の二度目の勉強日であった。クラマールへ越して来た伸子をあいてに、蜂谷はその火曜日から資本論の講義をはじめた。彼は、伸子を電車通の文房具兼雑貨店へ案内し、そこで新しくベルネの家へ届ける英字新聞と「リュマニテ」を注文したとき、伸子にすすめて二冊の学生用の帳面を買わせた。そして、いかにも学生をあいてに教壇から講義した経験の長い教授らしい扱いかたで、伸子に「資本の生産行程。商品及び貨幣。I、商品」とノートさせはじめた。「商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)」「資本制生産方法が専ら行われる社会の富は『尨大なる商品集積』としてあらわれ、個々の商品はその成素形態としてあらわれる。故にわれわれの研究は、商品の分析をもってはじまる」
伸子の茶色堅表紙のノートのうしろには、幾何を習いはじめる学生のために線、面、立体とわけて、直線、曲線、円、平面、球体、円錐体などの基本図がついていた。それぞれの頁の左に、見出しを書くためだろう、牡丹色の縦線がひかれている。伸子は、蜂谷のいうままに、その帳面をひろげてノートしはじめたが、そこの一区切りへ来たとき、鉛筆をもっていない左の手の先をちょっとあげるように合図して、
「待って下さらない?」
と云った。
「何だか、わたし、こういうやりかた、変だ」
顔をあからめながら、伸子は困った視線で蜂谷を見上げた。蜂谷は、第一日から自分の席は伸子のかけている場所と正反対の煖炉側ときめていて、火の気のない煖炉を横にしてテーブルへ片肱かけ、仮綴の本から、伸子がノートしている文句をよんでいるのだった。
「蜂谷さん、その本にかいてあるとおりを読んで下さっているの?」
「――そういうわけでもないが……」
伸子は自分の率直な質問が蜂谷に与えたショックに気づかず、遠慮するように云った。
「すみませんけれど、わたし、経済の勉強って、これまでしたことがないでしょう? だから、専門語かもしれないけれども成素形態なんて言葉、考えてみなけりゃ意味がわからないんです。あたりまえに云えば、エレメンタルな形態ってこ
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