ムの生活の可能があるのを見ているんです。わたしのは、知的遊戯じゃないの」
勘定書を手にとってカウンターの方へ歩きながら利根亮輔が云った。
「――伸子さんはエラスムスではなかったんですね」
こういう会話そのものが、その本質では何をはっきりさせようとして、利根亮輔という男と伸子という女との間にかわされたのであったろう。
伸子が、間もなくロンドンを去るというある曇り日の夕暮ちかく、利根亮輔と伸子とは人通りのまばらなバッキンガム宮殿前を、並木路沿いに歩いていた。歩きながら何気なく、利根亮輔が云った。
「あなたのようなひとを、思いきり自由に伸して、書きたいだけのことを書かしてみたら、さぞ愉快だろうなあ」
その調子には、利根の一歩に自分の二歩を合わせて歩いている伸子の体を、つつんで流すような普通とちがう感じがこもっていた。しばらくだまって歩いていて、伸子がはっきり、
「駄目よ」
と、云った。
「駄目、そんなイリュージョン。本気にしたらどうするの」
一人の人間を伸すということ。その人に書かせるというようなこと。そこにどういう方法があり、どういうことが起るのか、わかりもしないようなそんなことを、伸子が女だから、男の利根には、自分の力のうちでできでもしそうに思えるのだろうか。しかも、利根と伸子との間には、ことごとにと云えるほど、意見のちがいがあるのに。そんなことは、男と女との間であれば、とるに足りる何ごとでもないように利根亮輔には思えているのだろうか。伸子をひきよせる利根の話しかたが、伸子をおどろかせた。
「そうかなあ、イリュージョンかなあ。僕にはそう思えないんだが――」
「イリュージョンだわ!」
伸子は、その雰囲気から身をもぎはなすように云うのだった。
「わたしの考えかたや気質があなたに興味があるというだけよ」
「じゃ、僕は、あなたにとって興味のない人間ですか」
「――まるで興味のない人と、話しながら歩いたりするかしら。――でも、それは別よ。そうでしょう? 別であり得るのよ」
またしばらく黙って歩いて、バッキンガム宮殿のすぐ近くの角を曲るとき、伸子は、ひきこまれそうになっていた渦から解放されたほほ笑みで、
「利根さん」
とよんだ。
「わたしはね、ミス・マクドナルドでもないし、ミス・木村でもないの。だからね、対立があるからこそ協調してゆくっていうイギリスの流儀では、万事やってゆけないのよ」
「――そうか!」
バッキンガム宮殿のまわりを、機械人形のように巡邏《じゅんら》している華やかな服装の若い近衛兵《ローヤル・ガイド》が、そのとき伸子のすぐわきで、まじめな顔つきで規則正しいまわれ右をした。
伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる素子へのたよりに、利根亮輔と話すいろいろのことを書いてやった。バッキンガムのまわりを歩いたことも。しかし、その散歩のとき短くかわされて、二人の間柄を決定した会話についてはふれなかった。
今夜かあした、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ書く手紙のなかで、伸子は、「モンソー・エ・トカヴィユ」の七階へたずねて来た蜂谷良作と出かけて、モンソー公園に、こんなにゆっくりしていることについて、どう書くだろう。
秋の公園の日だまりのなかで、伸子はそんなことについて、考えてはいてもちっとも心を煩わされていなかった。伸子は、いまというひとときのもっている条件のすべてをひっくるめて、楽にくつろいだ会話や戸外の空気の快よさを感じているだけだった。
そろそろまた歩きはじめようとして蜂谷良作はベンチの上から帽子をとりあげた。
「いずれにしても、佐々さんは生活的だなあ。この間の晩、はじめてゆっくり話してみて、僕が一番感じたのはそこだった。――吉見君は、あれで、よっぽどちがうでしょう? あなたとは――」
伸子は、蜂谷との間で、そこにいない素子をそういう風に話すのはこのまなかった。
「あのひとは、わたしよりずっとものを知っています、あれだけ、ロシア語がちゃんとしているんだもの」
素子がよくものを知っていながら、その知っているところまで自分の生活そのものを追い立ててゆかないことも、いま蜂谷に説明する必要はない素子の一つの特徴だった。
伸子と蜂谷良作とは、公園の奥にある池のところから小道づたいに、来た方とは反対の道を出口に向った。
「こんどこそ、わたし、本気でパリを歩いてみなくちゃ」
「そう急ぐわけでもないんでしょう」
「親たちが帰れば、わたしはすぐモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へもどります。だから――そうね、ひと月はあるでしょうね」
「そんなにさしせまっているのか」
蜂谷は思いがけなさそうだった。
二人は、モンソー公園の前にある広場めいたところのカフェーで休んだ。夕方になった
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