゚てしまって、ろくに勉強しようとさえしないけれども、その後光にたえるつよい知性があってよく見れば、マルクスの価値説にはある種の独断もあり、すきもある。リカアドから強引にねじって、もって来られているところがある。それを一つほじくりかえして見てやろうと思って。――
そういう利根の調子には、こんにちマルクス主義者とよばれている人々へのひそかな軽蔑が感じられた。利根は、彼独特の繊細な方法で、第三インターナショナルぎらいを表現している。伸子はそういう風に感じとった。
「しかしね、彼の場合はあながち、そういう意味からだけやっているんでもないと思える点もあるんだ。たしかにマルクスの理論は、学問として、もっと研究されていいのは事実なんだ」
蜂谷自身、そういう研究題目にひかれているところもある声だった。
かけている石のベンチにおちていたつた[#「つた」に傍点]のわくらばを指の間にまわしながら、伸子はふと沈黙におちた。彼女の前には、傾きはじめた午後の日ざしに、大理石柱の白い影を光らせている池のおもてがある。髪を苅りあげている伸子のさっぱりした頸すじに、ななめよこから西日がさしている。気づかないでいるけれども、伸子の耳たぼは西日にすかれて、きれいに血色を浮かしている。落葉のあるベンチの前の土の上を、蜂谷は、往ったり来たりしていた。帽子を、伸子のわきに、ベンチの上においたまま。
利根亮輔と伸子とのロンドンでのつき合い。――あれは、ほんとうは、どういうことだったのだろう。伸子は、モンソー公園の静寂の中で、それを思いかえしているのだった。
丁度、「プラウダ」に出たブハーリンに対する日和見主義と偏向に対する批判が、各国新聞のニュースになって、伸子をおどろかしていたころだった。「史的唯物論」「共産主義ABC」とブハーリンの本をとおして共産主義に近づいて行った伸子にとって、「プラウダ」の批判は、正当だと思えるだけに、大きい衝撃だった。その衝撃は、自分の善意にしろ、理論的なたしかさをそなえていなければ、いつどこへ引こまれるかも知れないものだということについて、伸子に厳粛な警告を与えるのでもあった。
利根亮輔は、その問題について、ブハーリンの理論そのものがもっている誤りと危険について知ろうとするよりも、彼らしく、ロシア共産党の機関の決定の独裁性ということにこだわった。
「伸子さんみたいな、芸術家でも、そうかなあ」
女としての伸子を全体としてうけ入れながら、彼女の考えかたには、どこまでも自分の考えを対立させ、かみ合わせてゆく手ごたえの面白さを味うように、利根亮輔は云った。
「人間の本能というものが――この場合には主として権勢に対する欲望だろうが――『共産党宣言《マニフェスト》』の現実にどんな要因《ファクター》として作用するかというようなことは考えませんか」
彼のいうところでは、ソヴェト政権がこんにちまで保たれて来ているのは、そして、発展さえもしているように見えるのは、ロシア人民の文化の水準が、ヨーロッパ諸国に比べて低いからだというのだった。
「さもなければ、『プラウダ』一枚で、ああ完全に支配しきれるものではない」
「おかしなかた!」
そのとき、二人が話していたチャーリング・クロスのカフェー・ライオンのテーブルの前で伸子はほんとにおこった顔と声になった。
「あなたのおっしゃることは、あんまり根拠がないわ。誰が、ソヴェト同盟を『プラウダ』一枚で動かしているでしょう。あすこの人たちには、自分たちで新しい暮しかたをやってゆく方法がわかったのよ。あなたが、その事実を見ようとしないなんて――」
うそだわ、と言おうとしてちょっとためらった伸子を、利根亮輔は黒い怜悧さで輝いている眼で見つめながら、うながした。
「それで?――見ようとしないなんて?――」
いくらか礼儀にかなう表現にかえて伸子は、
「知的|怯懦《きょうだ》だと思うんです」
と云った。
「――なるほど……」
やがて、利根亮輔は、さも面白そうに笑った。
「ハハハハ。伸子さんは実に愉快な精神の原形をもっていられる。知的怯懦ねえ。――しかしね、伸子さん、あなたレオナルド・ダ・ヴィンチに懐疑がなかったと思えますか? 叡智はいつも懐疑から出発するんです」
伸子は、
「もうおやめにしましょうよ」
そう云って、テーブルから立つ仕度をした。
「日本は、ひどくおくれた国だから、それだけ男のひとは、女より特権をもっているんです。そういう意味で女は抑圧されている大衆なのよ。結婚して、そして離婚したっていうことは、これは女にとって何かのことなんです。わたしは、そういう女として、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に一年半暮したのよ。そして、生活そのもので、全体の方向としてあすこを肯定するんです。人々によろこ
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