トから、ペレールの家へ日参するようになってから、伸子の時間と精力とは、東京の家からそのままパリまでもちこされてついて来ている佐々一家の、家庭的ないざこざの中で費された。多計代の性格がかわらず、和一郎が和一郎であるかぎり、そして、おそらくは伸子も伸子であるかぎりは、循環小数のように、あるいは無為な人々にとってのスポーツででもあるかのように、いくらでも繰返される深刻そうで他愛のないごたつきに、伸子はあき疲れた。ペレールのアパルトマンのそとの世界には重大な事件があとからあとからとおこっていた。東支鉄道問題は、ソヴェト同盟にかみつく機会をうかがっている帝国主義の国々のあと押しで、蒋介石政府はわざと交渉会談を停頓させている。ソヴェト同盟の極東派遣軍のいるところでは、国境の村、町、都市のいたるところで、土地の住民による新しい中国の人たちのソヴェトが生れているらしかった。辺鄙地方の中国人民に、極東派遣軍の進駐は殺戮をもたらすものではなくて、はじめてその人々に人間らしい暮しのしかたを教えている。
ことは、どうなりゆくだろう。ボンベイやカルカッタでは、はだかではだしのインドの民衆が、幾千、幾万と行進し、地方から地方へと動いて民族独立運動を再燃させている。ランカシアの紡績労働者の大罷業は、ただ産業合理化に対する繊維労働者の生活擁護というばかりでなく、世界資本主義の新しい段階、一層明瞭になった労働者階級への攻勢、ファシズムの危険とのたたかいとして、「リュマニテ」はフランス労働者の注意によびかけているのだった。
片眼鏡《モノクル》をかけたチャンベルレーンとロシア流によばれていたチャンバーレンの似顔は、ソヴェト同盟の諷刺画を通じて伸子に見なれたものだった。チャンベルレーンの保守党内閣は、六月に労働党のマクドナルド内閣にかわった。「髭のマック」に、どれだけのことができるのだろう。日本でも張作霖を爆死させた田中義一の内閣が浜口雄幸の内閣にかわった。しかし、それで日本の支配階級が中国やソヴェト同盟に対してもっている野望の本質がかわったことになるのでないことは、伸子にさえもわかっていることだった。伸子は、こういうあれこれについてもっとよく、しっかりと知りたい情熱を感じ、ますますフランス語のわからない歯がゆさに苦しみながら、親たちをまずロンドンへ立たせた。
ロンドンについても、伸子が心にもっている地図は、泰造の、昔なつかしいロンドン案内とはちがっていた。伸子のロンドン地図では一八五〇年代のある陰気な雨の日に、一つの情景が描き出されていた。それは、大英博物館から遠くないとある街の歩道の上の光景だった。歩道へは、一軒の家の家主から追い立てをくって、放り出された家財がつまれ、そのわきに赤坊を抱いた気品のある細君と三人の子供と忠実そうな年とった召使いが、途方にくれた様子でたたずんでいる。この家族には、行く先がないのだ。しかし、かけ[#「かけ」に傍点]のたまっていた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋は、家主からこの家族が追い立てをくったと知るが早いか、集って来て、借金のかたに子供寝台まで差押えている。こうして二百人もの弥次馬に囲まれていたのは、イエニー・マルクス夫人とその子供たちだった。伸子のロンドンには、このほかに一九〇三年に描かれた一枚の小さい地図もやきつけになっている。地図をかいた男は、やがてレーニンという名で知られるようになったロシアの亡命革命家ウリヤーノフである。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の革命博物館のレーニンに関する特別陳列室の壁に飾られているその小さい地図を、伸子は、どんなにしげしげと眺めたろう。親切に、注意ぶかくかかれているこの一葉の地図を目あてにロシアから秘密に国境を越えてロンドンへ集って来た人々による社会労働民主党の第二回大会で、プレハーノフ、マルトフたちのメンシェヴィキ(少数派)とレーニンを指導者とするボルシェヴィキ(多数派)にわかれた。きょう、ロンドンのコヴェント・ガーデンがロンドン最大の青果市場であるというだけでなく、そこに「労働者の生活」の発行所があり、イギリス共産党があるということを伸子が知っているのは、伸子としての自然であった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から出発して来て、ワルシャワの陰惨なメーデーに遭い、「ヨーロッパ方式」での民主都市とめずらしがられているウィーンの模型じみた舞台をとおって、ベルリンで伸子が消えない印象を与えられたのは、カール・リープクネヒト館前の広場のいくところにも、白い輪じるしを記念にのこしている労働者殺戮のあとであった。日本から毒ガス研究のために派遣されている津山進治郎の思想の上にてりかえしている、ドイツの再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。このパリからロンドンへ向おうとする伸
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