qの心には、音楽でいうクレッシェンドのように次第に強くなりまさりつつある探究の情熱があった。伸子は、ロンドンをしっかりつかみたいと思った。そのためにはもう一歩深くこのパリの生活を、と――
半月ばかり前、伸子と素子とは日本で面識のあった蜂谷良作に思いがけずパリで出会った。蜂谷良作は経済が専門であった。伸子とすればロンドン行きをのばしたこの一週間のうちに、蜂谷にならきけるだろうと思われることを、あれもこれもと持っていたのだった。コンミューンの歴史をもっているのに、なぜフランスの共産党は、現在の程度の存在でしかないのだろうか。絶えず問題となっている統一労働総同盟《シー・ジー・ティ・ユー》と労働総同盟《シー・ジー・ティ》との関係はどういうことなのだろう。パリの労働者が労働者地区でだけ示威行進をしているというのも伸子にはわけがわからないことだった。それやこれやをみんな自分にわからせて、それからロンドンへ、と伸子は爪先に力のこもった状態だった。
素子の方は、大学の新学期がはじまるまえに、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰ろうと考えはじめている。ロンドンへ行って見たって同じことだ、と伸子を家族の間にのこして、自分だけモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ引かえそうとしている。いつまで、佐々の家族旅行にまきこまれるような形でいたって、というのが素子の心もちだった。伸子は自分の事情が、素子をそういう気分にさせていることに責任のようなものを感じ、ロンドンの街だけでも素子が見ておいた方がいいと主張するのだった。
「わたしは、あなたの姉さんみたいに、どこにいても何かが仕事の役に立つ、というようないい身分じゃないんでね。もう、こっちにだって、いすぎたぐらいのもんですよ」
素子は、食後のタバコをくゆらしながら和一郎に云った。
「もう、ぐずぐずしちゃいられない」
「どうして? まだ八月にはいったばかりよ」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の新学期は九月中旬から開かれるのだった。
「だからさ、ロンドンへは飛行機で行きましょうよ。いいでしょう? そしたら、まだるっこくないでしょう? そして、ざっと市街見物して、三日で立って来ればいいじゃないの」
そういう伸子の手をつかまえるような表情で、小枝が、
「飛行機なんて――何だかこわいようだわ、大丈夫なのかしら?」
と云った。
「このごろ、海峡《チャネル》でおっこちたって話はちっともきかないじゃないの」
「それより、姉さん、船に弱いんじゃなかったかな」
「弱いわ」
「吉見さんはいかがです」
「さあ、わかりませんね。しかし、昔大島通いの船じゃ散々でしたね」
「それじゃ二人とも、あやしいんじゃないですか。やっぱり相当酔うものらしいですよ」
「そこがいいところなのよ。吉見さん、ロンドンへ三日しかいないなんてがんばっているんだもの、あとで何がおもい出せるもんですか。だからね、たしかにドーバアを越えたっていうことを一生忘れないためには飛行機で行っておいた方がいいのよ」
「それにしても、いまごろは、おやじさん、さぞ感慨無量で二十年ぶりのロンドンを歩いているんだろうなあ」
そういう和一郎の顔つきには、自分たちもパリで解放された朝夕をたのしみ味っている満足と寛容さがあった。
「お父様の御様子、目に見えるようだわねえ」
伸子は、小枝の実感のこもった云いかたに笑えた。
「小枝ちゃんのおとうさまっていうのは、いつでもワグラムの通りをあっちから歩いて来るんじゃない?」
朝っぱらからワグラムのカフェーにいるところを、思いがけなく通りかかった泰造に発見されて、若夫婦の信用が徹底的に失墜した小事件があった。和一郎がとうとう自分たちの旅費は自分たちの自由にさせてもらおう、と親たちにつめよって行くようになった。彼のそんな感情の鬱積や嶮《けわ》しさも、いまのような気まかせなパリのアパルトマン暮しの中でおだやかに溶け去っているように見える。両親の留守をペレールで暮しはじめた和一郎の主人ぶりがあんまりなごやかであるだけ、伸子は姉として、その正反対の極にうつった場合の和一郎のむずかしさを思い比べずにいられないのだった。
しかし小枝は、今夜は今夜の和一郎のいい機嫌をそれなり幸福として、ほの明るみに輝やいている若妻だった。
「お母様もロンドンなら、御自分のおつき合いもおありになるから、ほんとにいいわ」
しかし、ロンドンのホテルで多計代の帯をしめてやっているのは泰造だろうか。それともつや子だろうか。小枝はその連想へまで自分をひきこむ気持のない明るさ、はなやかさで、
「お母様の英語って、しっかりしていらっしゃるのね。びっくりしたわ、船で話していらっしゃるのを伺って……」
「そりゃ、あの時代は、津田梅子先生じきじ
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