L子にはひとしお強烈な刹那の色どりをもって、夕焼雲のてりはえるようだった母と越智との感情交渉のところを思いかえした。あの、伸子の若いすこやかな理性をめまい[#「めまい」に傍点]させそうだった多計代の女としてのゆらぎかた。――あのころ、多計代は母という自分の立場にさえ反撥しているようだった。いまの多計代にのこっているものは、その燠《おき》であり灰だとして、その燠と灰とは、様々の涙にしめらされて、何ときつい刺戟する匂いを立ちのぼらしているだろう。
「でも、よかったじゃないか。お父さんがそんなにあっさり、ぶこちゃんがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へかえることを承知して下すって――」
「そうなの。ほんとに思いがけなかった」
「きみとお父さんとの間が、ごく自然に行っている証拠さ。なかなかそう、すらっと通じ合うものじゃない」
素子は自分の生家のこみいった父との関係を思いめぐらす風だった。
「きみのお父さんはめずらしく寛大なひとだ」
素子のその言葉は、伸子をまた新しく自分の心のうちへひきかえさせた。伸子は、素子には云っていないのだったから――泰造が、徹底するまで[#「徹底するまで」に傍点]モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいてみるのもよかろうと云ったことが、自分の心にどのような衝撃を与えたか、ということについては。――そのような自分を、伸子は素子の前に全部うちひらいて見せてはいないのだった。
九
佐々の親たちと和一郎との感情をもつらせた旅費の問題は、その後、どんな風にけり[#「けり」に傍点]がついたのか。あとのいきさつは、伸子に一向わからなかった。ペレールの家へ伸子はあいかわらず日に一度、二日に一度と顔を出していたが、多計代はもうそのことにはふれなかった。和一郎もだまった。その様子で、伸子は、両親と和一郎との間には、もう伸子を必要としない協定がなりたったことを知ったのだった。そして、八月にはいると間もなく、佐々泰造、多計代、つや子の一行がロンドンへ行った。留守になったペレールのアパルトマンへは、ホテルを引きあげて和一郎夫婦がはいった。
パリの日本郵船支店から貨物船の便宜があって、不用になった佐々の荷物の一部を、ロンドンへ立つ前に東京の家へ向けて発送しておくということになった。
大きい木箱だの、金ものづくりの大トランクだのが、アパルトマンの狭いなか廊下へもち出された。これから先の旅行のために残しておかなければならない衣類と、もういらない分とをよりわけて、うずたかくつみあげたベッドのはじへ腰をかけて、多計代はトランクのまわりで働いている伸子、素子、運搬がかりのつや子を監督した。多計代がくたびれてベッドによこになっても、そこからみんなのしていることは見える廊下の位置に、トランクはひっぱり出されているのだった。
「こっちじゃ、こんなにとりこんでいるっていうときに、小枝さんにも困ったもんだ。どうしてああ病気ばっかりするんだろう」
つや子がトランクのところへ運んでゆくひとやまずつの衣類に、最後の検分の目を向けながら、多計代は非難をこめてひとりごとした。
「いまごろ風邪ひきだなんて――」
その日は、熱が出ているからと、小枝は姿を見せなかった。和一郎が来て、トランクを多計代の云いつける位置に出しておいて、すぐ帰って行った。
伸子、素子、つや子の三人は、二日間、口かず少なく能率的に働いた。伸子は、いつか父に買ってもらった柿右衛門もじりの白粉壺をよく包んで、トランクの片隅に入れた。
その大荷物が二個運び出された翌日、廊下のカーペットが何となしごみっぽくなっているなかを、親たちとつや子三人はロンドンへ立った。早朝の出発で、北停車場へ送りに来たのは伸子たちのほかに和一郎だけだった。
留守になって二日目に、伸子と素子とはペレールの和一郎たちから晩餐によばれた。いくらか頬にやつれが目立って、それがかえって若妻らしいおとなびた美しさを添えた小枝は、親たちの留守に入っているという自分たちの立場からひかえめなものごしを失うまいとしているけれども、パリへ来てはじめて夫婦ぎりのアパルトマン暮しの楽しさは、つつみきれないそぶりだった。
「お姉さまを、ぜひ一度およびしなくちゃって云っていたのよ、ほんとにいろいろ御心配かけちまったんですもの」
「姉さんたちも、もう一週間ぐらいで行っちまうとすると、あんまり日がないから、いっそ早い方がいいかと思って」
和一郎夫婦は、半年ばかりロンドンに滞在することに決定して、先発した親たちが適当と思う下宿を見つけ次第、知らせをうけて出発することになっていた。伸子が、親たちと一緒に立たず、わずか一週間でも自分たちだけおくらしたのは、伸子のこころもちの切実な要求からだった。親たちがパリへ来
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