jテ」には檄《アッピール》がのった。フランスの革命的労働者諸君! ソヴェト・ロシアに対する戦争政策の開始は、全世界の労働大衆に向けられた殺戮政策である。反動、ファシズム粉砕のために、ソヴェト同盟の敵に対して強力な階級闘争をたたかえ! 檄は近づいている八月一日の、世界反戦デーの、大規模な行進へのよびかけとむすび合わされていた。
わかりやすい字をひろってやっとあらましの意味をつかめる「リュマニテ」の紙面からは、伸子を緊張させずにおかない響がつたわって来る。それを感じない人々にとっては一つの国際的な些事のように、しかし、その意味を実感するものにとっては重大な信号をもって、さりげなく、だが不断の注視をもって資本主義の国々の視線が一つの国境に集中されつつある。ロシア革命の歴史については乏しい伸子の知識のなかにさえも、デニキンという名がある。コルチャックとウランゲルの名がある。革命のロシアへなだれこんだこれらの白軍のうしろに、帝国主義国のいくつかの国旗がはためいた。日本は東洋の番犬である任務をはたして、それに対するおこぼれを期待してシベリア出兵をした。
伸子は、自分のなかに生きている国境がみだされようとしているのを感じるのだった。その国境は冬空の下に果しなくひろがり、半ば蒙古風だった。伸子がそこを通過した日は北風が吹いていた。一人の蒙古の男が線路沿いの淋しい野道を歩いていた。防寒帽の耳覆いのたれを北風にふきちらされ、蒙古服の裾を足にからむほど煽られながら。その男のわきについて、精悍な黒い蒙古犬が二匹駈けていた。
バイカル湖を深く囲んだ、シベリアの原始林の間へ沈んで行く太陽は何と赤かったろう。そこには雪があった。人跡絶えた雪の白さ。赤く燃える落日。逆光をうけて真黒く、太古の茂りに立っている原始林の荘厳さ。
現在パリに暮している伸子は、郷愁に似た思いで、この国境を愛している自分を自覚するのだった。ソヴェトの国境は飢饉とたたかい、白軍を撃退し、営々として建設しているソヴェトの人々のために堅持されなければならない。人類の社会は成長し得るものであることを信じて、努力している世界の人々にとって守られなければならない。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街々の朝夕。人々の顔、声。ここではじめて試みられている様々の社会生活の新しい仕組によって生きているナターシャとその赤坊と若い良人がいる。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の四季のなかに、何と大量に人間の可能性が燃焼していることだろう。そして、あすこには、そのような新しい社会からしか生れない新しい人間感情が存在しているのだ。
去年のメーデーの前、日本の共産党の人々が検挙されたとき、泰造はその新聞記事を赤インクのカギをかけてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる伸子のところへ送ってよこしたことがあった。その伸子はいまパリにいてペレールのアパルトマンへ日に一度は顔を出し、親たちや弟妹とブーローニュの森の散歩だの、ルナ・パークでの他愛ない遊びにつれだったりしているから、もう東支鉄道問題がどうであろうと、泰造にとってそれは外国でよむ一つの新聞記事にしかすぎないのだろうか。
赤インクのカギがいくらか荒っぽくかけられた新聞をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で見たとき、伸子は苦しかった。そういうものを送られたことについて、忘れがたい印象をうけた。パリでの暮しで、泰造がパリというところにはきびしい人間の思想がないように、自由に成長しようとする人々の苦しくまじめな階級のたたかいがないように、安気そうなのは、またそれとして伸子の関心をひくことだった。
七月二十三日の夜あけがた、パリの警視総監は、パリの市内のあちこちで、手あたり次第に多数の共産党員を逮捕させた。東支鉄道問題以来、ファシズムに反対、ソヴェトを侵略からまもれ、という声は労働者ばかりでなくひろい知識人の層からもおこっていた。八月一日の反戦デーの準備は大規模に精力的にすすめられているらしかった。七月二十三日の明けがたの急襲は、その妨害だった。
その日の午ごろ、例によって伸子がペレールの家へあらわれると、多計代は、
「きょうは、明けがたに妙なことがあったよ。伸ちゃんの方はどうだったい」
ときいた。伸子はヴォージラールのホテルの七階で、何にも知らなかった。目をさまされるような特別のことは何もなかった。
「どうしたんだろう」
多計代は、自分の記憶が夢の中のことでないのをたしかめるような眼つきで、
「あけがた、外を何度にも、騎馬で通ったものがあるんだよ。ふっと眼がさめたら、かなりどっさりの蹄の音がしているじゃないか。おや何だろうと思って耳をすましていたら、つづけて、あれでどの位通ったんだろう。大分の数だったよ。わた
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