エ触が、異様に伸子をうった。伸子の抱擁は次第にゆるんだ。

 この七月十四日、パリ祭の日にソヴェト同盟と中国との国境が封鎖された。十七日には、正式に国交断絶した。そして、十八日、ハルビンに戒厳令がしかれた。
 佐々の親たちとつや子とが、ホテル・アンテルナシオナールから、ブルヴァール・ペレールのアパルトマンに引越すのが十六日で、伸子は、引越しに必要なシーツだのテーブル・クローズなどを買うために、いそがしく百貨店を歩いた。十九日に通い女中が来るまで、伸子はペレールの家へかよって、台所をうけもった。スープをとる深鍋でたく御飯は、水のひきがわるくてぐちゃついたが、それを泰造までおいしがった。
「ほんとにここへ来てよかった。あなた、伸ちゃんがあと片づけしてしまったら、ボア・ド・ブーローニュへでも行ってみようじゃありませんか」
 内輪の者ばかりでいる夏の夕方らしく、台所まで、あけはなされたドア越しに、客間でそういっている多計代の声がする。
「よかろう、行きましょう」
 伸子は、ここに住居をきめたことはやはり成功だったと思った。ここならアパルトマンの表口にさえ立っていれば、ブルヴァールを通るタクシーをいつでも、誰にでも、つや子にだってとめることができるのだった。和一郎と小枝は、予定どおりホテルにのこっていた。二人は二人で、おいおい気にいったところを見つけて移るわけだった。
 床を白タイルで張ってあるこぢんまりした台所で、伸子は鍋や大杓子を洗っている。赤いセロファンのようなエプロンをつけたつや子が、伸子の洗った鍋は鍋のあったところに、大杓子はそれがかかっていた釘へかけて片づけを手伝っている。アパルトマンにうつってから、つや子は気がむくと手伝う場所ができ、自分としての部屋もできて、いくらかたのしそうだった。
 明日から、通いの手つだいが来はじめるという夕方だった。
「つやちゃん、あなた、すこしは学校でならったフランス語をつかって見なくちゃ――あんまりだまり虫[#「だまり虫」に傍点]だわ。これからおかあさまと二人でいるとき、用ができれば、あなたが何とかしなければならないのよ……」
「――お姉さま、もうあんまり来ない?」
「来ることは来るけれどもさ」
 鍋を洗っている伸子の眼のなかには、夕飯をしまったあとの両親たちが、自分たちだけでかもしだしているおだやかな雰囲気とはちがった、重く鋭い、何かを知ろうとして、心をよそにひかれている表情があった。
 七月十四日からひきつづいておこったソヴェト同盟と中国との間の国境封鎖。国交断絶。支那側による東支鉄道の回収について、パリの英字新聞「デイリー・メイル」は冷静に事実を報道しているだけだった。「吾々の最も危険な敵はソヴェト・ロシアである。吾々は列強の特権を武力をもって廃絶しないであろう」そういう蒋介石の宣言をのせている。「リュマニテ」はこの事件の真実について語っていた。南京政府はソヴェト・ロシアに対する戦争政策によって、中国労働大衆の革命を弾圧するための帝国主義国の援助を獲得している。そして、国境にどしどし白露軍を結集させていると報じた。中国側がハルビンに戒厳令をしいたということは、そのニュースの本質を裏がきすると、伸子は思うのだった。
 おととしの冬、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る途中で、伸子と素子とは四五日ハルビンへよった。目抜きのキタイスカヤ通りの光景。そこにあった大百貨店チューリン。ハルビンにいる金まわりのいい日本人――というより、ハルビンにいる日本人が、金まわりのいいときや内地から客が来たとき、出かけてゆくレストランやキャヴァレーは、大抵、白系露人が経営しているところだった。こんどの蒋介石のやりかたに対して、ハルビンの日本人の大部分がどんな興味と期待をもっているかが、そこで会った幾人かの人の顔を一つ一つ思いうかべながら、伸子は想像できるようだった。ハルビン在住の日本人たちは、よりより情報をかわしあったり、臆測を語ったりしながら、むしろ、蒋介石がこれでどこまでやれるものか、という風な話しかたをしているにちがいなかった。ハルビン市にしかれた戒厳令ということも、その人たちは三分の不安と七分の安心でうけとっているのだろうと思えた。満州で張作霖を爆死させたりしている日本の侵略の気風はハルビンの人々にも影響していて、ものみだかい、あわよくば、という感情の半面で、本国から遠くはなれている人々はやっぱりソヴェト同盟の平和政策を信じたいところもあるのだから。
 中国側の強引な回収に抗議して七月二十二日、東支鉄道従業員のジェネラル・ストライキがおこった。蒋介石は軍隊の力でそれを弾圧している。「デイリー・メイル」は、はじめと同じような冷静さで、中国側の動きを肯定的にとりあげて報道しつづけている。「リュマ
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