オは段々薄気味がわるくなってね、お父様に起きて頂いたけれど、何だかわからなかった。――何だったんだろうね」
そのとき、伸子はまだその明方に何事が行われたか知らなかった。母が、おびただしい馬蹄の音を往来の上にきいて、そんな不安を直感したという、そのことの方がむしろ不思議だった。
二十四日の新聞で、伸子は、前日の夜あけの出来ごとを知った。多計代が目をさましてきいたという馬蹄の響は、そのためにくり出されたパリの騎馬巡査がどっかへ行く音だったのかもしれない。伸子は、母が、その見えない往来の上の馬蹄の響に物々しさと殺気とを感じた敏感さにおどろいた。伸子は、素子とその話をしたぎりで、多計代に、事件の内容は告げなかった。検挙された共産党員とよばれる人々の中には、いくたりかの外国人もまじっていた。ベルリンの血のメーデーのときの記事を思い出させるところのある英字新聞の調子だった。伸子はくりかえして「デイリー・メイル」の記事をよんだ。こういう事件は予想外のことでなく、ブリアンの政府にとっては全く計画的なことであり、これからもこういう事件は又くりかえされ、人々がそれをあたりまえと思うようにひき入れて行こうとするきざし[#「きざし」に傍点]がうかがわれる調子だった。「リュマニテ」は、フランス全市民を決定的にファシズムのもとにしたがえるために、人々が生活権のためにたたかう勇気をくじかれ恐怖としりごみをおこさせるために、ブリアン政府は、まず人民の前衛である共産党の破壊に着手した、という事件の本質をあきらかにした。ファシストは国際的にはソヴェト同盟を、国内的には共産党を、潰そうと試みている。しかし、それは不可能である。「|不可能である《セ・タンポシブル》」――この言葉は紙面に目をすえている伸子の心にこだました。短い否定の言葉に、最もつよい積極の意味が表現されている。そのことに伸子はうなずくのだった。
「デイリー・メイル」をよんでいる泰造が、七月二十三日の事件について、どんな感想をもつだろうか。注意ぶかくなっていた伸子は、この場合にも泰造が全然よそごととしているのに安心し、こころひそかなおどろきも感じた。これが日本のなかのことでもなく、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でもない国フランスにいる、そのことで、泰造は気楽になっている。伸子は改めて、どこにいても同じように神経のたった女の鋭さでかん[#「かん」に傍点]を働かしている多計代の感受性について考えた。
七
街々のマロニエの緑の色をこころよく甦らせて夕立があがった日の午後五時すぎ、伸子はペレールの両親のアパルトマンを訪ねた。うすぐらい入口のドアの前にたってベルをおした。しばらく答えがなくて、もう一度鳴らした。ドアをあけたのは、通い女中のマダム・ルセールではなくて、はれぼったい顔色をしたつや子だった。
「ああお姉さま!」
つや子は体ごとすりつくようにして、伸子の手をひっぱった。
「来て……」
つや子のその様子は普通でないのに、アパルトマンは、しんとしていた。
「どうしたの」
伸子は、さては母が病気になったかと思った。
「誰か病気なの?」
「ううん、ちがう」
もしゃもしゃになっているおかっぱの頭をふって、つや子は、とり乱したようにひどい力で伸子を、まっすぐ客間へひっぱって行った。露台に向って一杯に窓がひらかれている、雨のあとの爽やかな空気が流れている客間の長椅子の上に脚をのばして、多計代がいた。ななめよこから夕暮の外光をうけている多計代の顔色のわるさ。それは蒼さをとおりこして青っぽく黄色かった。長椅子の前の小テーブルに飲料水エビアンの瓶とコップとがおかれていて、わきに多計代の持薬である宝丹の紙袋が出ている。
「ほら、やっぱり、どっかお悪いんだわ」
伸子は、足早に母のそばへよって行った。
「どうなすって? 電話下さればよかったのに」
多計代は、むしろ精神的に、力も何もぬけはてた様子で、伸子の方へ手をさしだした。大粒のダイアモンドの指環のはまった多計代の右手は、伸子の手のなかでかすかに震え、表面が冷えきっているようでしんが熱っぽかった。
「ね、ほんとにどうなすったの? どっかが苦しいの?」
「苦しいのなんのって――伸ちゃん」
多計代は、すっかりかすれてしまった声で、やっとききとれるぐらいに云った。
「きょうというきょうは、もうすこしで、わたしも殺されるところだったよ」
多計代は、そう云いおわって、息がつまって来るのに抵抗するような咳ばらいをした。
まじりけない不安にはりつめられていた伸子の表情のかげに、多計代の言葉の誇張を疑う色が動いた。
「殺されるなんて――」
だれに? どうして? あり得ないことだ、と伸子は思った。伸子は訊くように、わきに立っているつや子を
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