激^リアートは、津山進治郎のいう「モルトケの戦法」で、経済の上にも法律の上にも、分れて進み合してうつ「新興ドイツ」のしめつけにあっていて、それをふんまえながら軍国主義のボイラーへはますます燃料がつぎこまれている。ロート・フロント! ロート・フロント! 用意はいいか! それは反抗の叫びであり、抵抗の唸りであり、帝国主義に向ってつき上げられているつよい拳《こぶし》だった。けれども。伸子はそこに双方のゆずらない対立を見出すだけだった。
 以前より悪辣に生きかえりはじめているドイツの帝国主義と、それに反対する民衆の勢力とが、伸子たちにさえ感じとれるほど鋭く対立しながら足踏みしているのは、川瀬勇の説によると、独占資本に尻尾をまいたドイツの社会民主主義者たちのせいだった。シャイデマンやノスケは、カールやローザを殺して、一九一九年のドイツの革命をブルジョア民主革命にまでも及ばない、まがいものにすりかえることに成功した。だから、と、川瀬や中館たちは自分の専門の映画や劇の問題にかえって、ドイツの新興芸術の深刻さ[#「深刻さ」に傍点]は、段々くさった溝になって来てしまった、というのだった。興行資本の大きいアメリカの裸レビューに吸収され、トーキーに食われてゆくのだというのだった。伸子たちはそれらのことを、世界情勢という言葉にまとめて話されるのだった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活は、民衆の生活のすべての具体的なあれやこれやをひっくるめて、社会主義がわかっていようがいまいが、こみ[#「こみ」に傍点]で社会生活の実際を、社会主義の方向へひっぱっている。新しいものは旧いものと絡みあい、交りあい、ときにはまだら[#「まだら」に傍点]になりながら、たゆみなく前進している。
 伸子は、テーブルの上に出たままになっている「戦旗」をめくりながら、日本は、ソヴェトの社会に似るよりもよけいにベルリンに似ていると思った。革命という字は、伸子にしても、そこに未来の約束がふくまれている言葉として感じとられるようになっているけれど、ほんとうに革命が生きぬかれてゆく、いりくんで複雑な過程は、何とそれぞれの場所で、それぞれにちがっていることだろう。伸子が、日本はドイツに似ていると感じることのなかには三・一五やら山本宣治の暗殺や二冊の「戦旗」にみなぎっているけわしい対立の雰囲気からの連想があった。
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