トです?」
 小さなものにつまずいたような表情が黒川の、ぴったり黒い髪をわけた顔の上を通りすぎた。
「ひとつ、後学のためにうかがいたいもんですな」
 こういう黒川の身のかわしかたと口調とが伸子に彼の人物をわからないものにするのだった。
「だって、そうじゃないかしら。ああしてそこに住んでいる労働者の子が、外国人を見るとエハガキを売りに来るんじゃ、そこで労働者生活が改善されているとは云えないと思うんです」
「あれは佐々さん、大した意味のあることじゃないですよ。ここへ来る外国人は、みんな何か記念を欲しがるんでね、ああやってほしい人に売っているだけですよ」
「でも、事実、あれで小遣いを稼いでいるんでしょう? エハガキの収入がこの労働者住宅としての収入になっているのでないことはたしかよ」
「それはそうでしょうがね」
 黒川は、その現実は認めた。しかし、すぐつづけて、
「じゃ、ロシアじゃ売ってませんか」
と、逆に質問した。
「何でも彼でも宣伝というとぬけめがないらしいがエハガキまでには手がまわりませんか」
 何と妙にもってまわった云いかたをするのだろう。伸子は、
「そんなもの売っちゃあいないわ」
 おこった若い女らしくぷりっとして答えた。そして傷つけられた心もちで、この間シェーンブルンへ三人で行ったときのことを思いあわせた。それは、ベルリン事件から間のないある日のことで、美しい丘の上の柱廊《コロネード》からはるかにウィーンの森を見はらしながら、素子が何心なくベルリンのメーデー事件について、ウィーンの新聞に何か後報がでていやしまいかと黒川隆三にきいた。そのとき黒川は、無関心な様子で、さあと云い、けりがついたんでしょう、と答えた。つづけて、ベルリンじゃ、何でも共産党が先棒をかつぐんでね、と云い、そうなんでしょう? と伸子たちに顔をむけた。コミンターンの指令どおりに、何でもしなけりゃいけないことになっているんでしょう? 黒川のそのききかたには、とげがふくまれていた。そのとき伸子は黙っていた。素子もきこえないふりをしているようだった。
 いまも、気もちの害された表情で伸子が沈黙したまま、斜面の景色を眺めていると、黒川は、
「もしロシアで労働者がエハガキなんか売っていないとおっしゃるんなら、そりゃ、まだロシアが、エハガキなんか作るところまで進んでいないというだけのことですよ」
と云った。

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