、発音出来ますよ。やって御覧なさい」
これは伸子にとって思いがけないことだった。恐縮してそちらを見ている伸子に、素子はちらりとながしめをくれながら苦笑した。そして、
「この次まで練習しておきましょう」
ブィラは保留となって、女教師はかえった。
女教師のうしろでドアがしまるとすぐ、伸子は壁にくっついている長椅子とテーブルの間から出て来た。
「――妙ね、あれ、どういうの?」
「なにがなんだかわかりゃしない」
「わたしのブィラが、ほんとによかったの?」
「いいんだろう」
素子は一二度マッチをすりそこなってタバコに火をつけた。そして、その吸いくちの長いロシアタバコに、パイプをもつときのように指をかけてふかしながら室の中央に向けてずらした椅子にかけて考えていたが、
「ぶこちゃん」
不機嫌な声のままで云った。
「なあに」
「わたしが何かやっている間は、この室から出ていてくれよ」
「――そうしたっていいけれど……」
その間自分はどこにいたらいいのだろう。伸子は当惑した。ぶらぶら雪の夜街を散歩するほど伸子はまだモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に馴れていなかった。考えてみれば、日本を出てから二ヵ月近く、二人は一つ室にばかり暮して来た。
「ね、いいことがあるわ、ここで、小さい室を二つかりましょうよ」
今いる四階の表側のひろい室代は六ルーブリ五十カペイキでそれに一割の税がついていた。
「われわれに、そんな贅沢なんか出来やしないよ。ここじゃ、一番小さい室だって五ルーブリじゃないか。そんなことしたら本代なんか出やしない」
「…………」
系統的に本を買わなければならないのは素子だった。二人の旅費のしめくくりをしているのも素子であった。
「ね、ぶこ、たのむ」
素子は、自分の云うことに我ままのあるのは分っているが、どうにもやりきれないのだという風に、そう云いながら涙ぐんだ。
「暫くのことなんだから秋山さんの室へでもどこへでもいっててくれ」
「――いいわ。もう心配しないで」
しかし、その晩ベッドに入ってから、伸子は長いこと目をあいていた。廊下の明りが、ドアの上のガラス越しに、灯の消えた自分たちの室の壁の高い一隅に映っている。スティーム・パイプのなかでコトコトコトと鳴る音がするばかりで、素子のベッドも、あっちの壁際で、ひっそりしている。
素子が、発音のことからあんなに
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