勉強するデスクから一番遠い壁ぎわに角テーブルをひっぱって行って、そこで、例の「黄金の水」の書きとりをやっていた。緑色笠のスタンドの光を棗《なつめ》形の顔にうけて、素子は、伸子にわからない慣用語や語源の質問をした。それが終り、発音の練習がはじまった。これは、ひとりで伸子の耳にわかり、時々興味をひかれた。ベルリッツの萌黄《もえぎ》の本で一から百・千・万と数をおそわったとき、たとえば五はピャーチとかかれていて、素子はそれをその字のように発音した。だから伸子も、のばしてピャーチと云うものだと思っていた。しかし、それが十とくっついて、五十というときはあとの方に力点がついて、五はまるでペチというように響いた。
 女教師と素子とは、機嫌よくときどき笑ったりしながら、いろいろの組合せで発音していたが、ふと、女教師が何かききとがめたような声の表情で、
「どうぞ――もう一度」
と求めた。素子が注意してくりかえしているのは「あった」という字であった。伸子は室のこっちの壁ぎわで、粗末な紙の帳面へにじむ紫インクで書き取っていた。「農民ボリスは、非常に苦悩した。何故なら、彼に富と幸福をもって来る筈だった黄金の水――石油は、彼を果しのないぺてんの中へひっぱり込んだから」ひっぱりこむ、という字がわからなくて辞書をみていた伸子は、デスクのところで、
「何故です?」
 すこし怒りをふくんでききかえしている素子の声で、頭をあげた。
「わたしは、三度とも同じに発音したのに」
 まだ「あった」が問題になっていた。伸子は、おやおやと思った。柔かいエリときつく舌を巻くエルの区別が出来ない伸子は、駒沢の家でロシア語の稽古をしていた時分、素子に散々笑われた。その素子が、やっぱり本場へくれば、案外エリを荷厄介にしている。女教師はもう一度、そのごくありふれた一つの字を素子に発音させた。こんども黙って不賛成をあらわし、頭をふった。彼女のその視線が丁度そのとき帳面から顔をあげたばかりの伸子の眼とあった。女教師は、その拍子の思いつきらしく、素子のよこにかけたままの遠いところから、
「あなた、やって御覧なさい。――ブィラ」
と、その室の端にいる伸子に向って云った。
 伸子は、下手な方に自信があったので、格別の努力もしないで、その言葉を発音した。
「もう一遍」
 伸子は素直にもう一遍くりかえした。
「御覧なさい。あなたのお友達は
前へ 次へ
全873ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング