A
「おやすみなさい」
と言った。
「邪魔して御免なさい」
女助医がドアをしめて病室を出てゆこうとしたとき、伸子はベッドの中から大きな声で、
「あかりを消して下さい、どうぞ」
とたのんだ。
あくる日、いつものとおり面会時間に来て、伸子からゆうべのいちぶ始終をきかされた素子は、
「へえ。だって今更――おかしいじゃないか」
素早く頭を働らかせて状況を判断しようとする眼の表情で言った。
「きのうきょうここへ来た人間じゃあるまいし」
「そう思うでしょう? わたしもわからなかったの。でもよく考えてみたらね、御利益《ごりやく》があらわれたわけなのよ」
「御利益?……なんのさ」
「陸軍少佐藤原威夫の」
「そうか――なるほどね」
素子はうめくように承認した。
「だって、そうとしか考えられないんだもの。わたしたち、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てはじめてだわ、こんなこと」
伸子は自分の推測を最も現実に近い事情として信じた。それにつけ、考えれば考えるほど歎けて来るおももちで伸子はしょげ、
「ほんとに、母ったら!」
おこってもまに合わないという風に気落ちした顔を窓に向けてだまりこんだ。
そのころ、ソヴェトでは、はっきりした目的や理由がないと国外旅行を許可しなかったし、旅行のために国外へもち出せるルーブリの額にも制限があった。伸子たちは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から出かけた先のどこか便宜な場所で、伸子は文明社からの送金を、素子は東京の従弟にまかせて来ている送金を受けとることができる手筈をととのえておく必要があった。やっと病棟の廊下をそろそろ歩きするようになった伸子に代って、ひまを見ては素子がその調べのために歩きまわった。こういうことを、伸子と素子とは慎重に二人の間だけの事務にしていた。少くとも、フロムゴリド教授が伸子のカルルスバード行きに賛成して、証明書のようなものを書いてくれるまで。伸子も素子も、いらざるひとに――藤原威夫のようなひとに――二人のこの計画へ手を出されることをひどくおそれた。
十八
いったい、佐々のうちのもの、と言ってもそれは多計代の意志で決定されたものなのだったが、いつの間に、ヨーロッパへ出かけて来ようという計画をたて、その決心をし、船室までとったのだろう。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−
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