A公然たる結婚ということを結婚の儀式の手落ちない運びかたとか、さもなければ法律上の手続の完了――入籍したかしないかという点などから云っていた。こそこそしたことのきらいな生れつきの伸子は、その意味では佃と公然と結婚したのであったし、同じ意味での公然さで離婚した。
だけれども。――伸子は、ナターシャが彼女の職業と結婚、姙娠、赤坊の誕生についてもっている全く社会的な公然性を、自分の経験したみせかけばかり[#「みせかけばかり」に傍点]の公然さとくらべて見ないではいられなかった。伸子が女として生きて来た社会では、自分の意志で選んだ対手と生活しようときめた若い女に対してはその胎《はら》のなかまで詮索ごのみの目を届かせずにはおかないほどだのに、いざというとき、みずからが要求したその結婚の公然性に対して、社会は何の保障らしいものを提供しただろう。
伸子は、そういう社会に行われていて人のあやしまない虚偽におどろきを深めながら、佃と離婚しようときめたときの自分の困惑と動顛の感情を思い出した。伸子は、そのときになるまで日本の民法では女が結婚すると法律上の人格をうしなって無能力者にならなければならないという事実を知っていなかった。互にとって苦しい五年の生活のあげく、伸子は離婚するしかないときめて、その法律上の手続きを調べようと六法全書をあけてみたら、婚姻の項に、その法文を発見したのだった。そのとき伸子はもうずっと佃の家からはなれ、動坂の生家にいた。父親のデスクの前にたって六法全書のその頁をひらいたまま、ほんとにあのときは体も頭も一時にしびれてゆくようだった。佃はこの法律を知っているだろうか。伸子は恐怖の稲妻の下でそう思った。妻という立場の自分からは離婚もできないのだろうか。伸子は毛穴から脂をしぼられるような苦悩で、夫は妻に同居を要求する権利がある、という文句や夫の許可なくして妻が行うことのできない様々の行為をよみ、やっと協議離婚ということは、妻からも求めることができるとわかったとき。これで救われたと思った次の瞬間、伸子は一層残酷な恐怖にとらわれた。もし佃が、協議離婚をうけつけなかった場合はどうしよう。いつもの彼の云いかたで、それは伸子の望むことであるかもしれないが自分としては考えられもしないことだ、僕の愛は永久に変らない、と云って、その手続のためになくてはならない署名や捺印を拒んだら。
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