Rレクションであるモローゾフスキーの画廊をもう一度見なおしたいとも思った。伸子がそんなことを云っていたのはパンシオン・ソモロフで暮した夏からのことだった。モローゾフスキーには、ピカソの笛吹きをはじめ、青年時代のいくつかの作品やゴーガン、カリエール、ドガ、モネ、マネ、セザンヌなどフランスの印象派画家たちの作品があった。
 フランスの近代絵画の手法と、ロシアのどこまでもリアリスティックな絵画の伝統とは決してとけ合うことない二つの流れとして、ソヴェト絵画の新しい門の前にとどまっているようだった。ちょうど日本から歌舞伎の来ていたころ、プロレタリア美術家団体からフランスへ留学させられていた三人の若い画家の帰朝展がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で開かれた。パリにおける三年の月日は、ソヴェトから行った若い素朴な三人の才能を四分五裂させてしまっていた。三人の作品は、どれをみても、ソヴェト人にとって、外国絵画のまねなどをしようとしてもはじまらないことだという事実を証拠だてているようだった。画面全体が不確なモティーヴと模倣のために混乱した手法の下におしひしがれ、本人たちが、何をどう描いていいのか、次第にこんぐらがって行った心理の過程がうかがえた。パリへ行ったばかりのときの作品は主として風景で、三人ともロシア人らしい目でありのままに対象を見、しかもにわかに身のまわりに溢れる色彩のゆたかさと雰囲気にはげまされて、面白く親愛な調子を示していた。それが一年目の末、二年と三年めとごたつきかたがひどくなって来て、最後の帰朝記念の作品では、三人が三人ながら、いたずらに何かをつかもうとする苦しい焦燥をあらわしていて、しかもそれができずに途方にくれているのだった。
 このパリ留学失敗展は伸子にいろいろ考えさせた。ソヴェトの新しい芸術はパリへ三年留学するというようなことでは創れない本質をもつものだ。この事実を、ルナチャルスキーとソヴェト画家たちが知ったことにはねうちがあった。学ばれること。模倣されること。ソヴェト独特の絵や文学がそのどっちでもなかったということは、伸子にとって身につまされる実感だった。この発見のなかには、伸子にむかって、それならお前のものはどこに? とひびく声がひそんでいた。ソヴェトの芸術はソヴェト生活そのものの中から。自分としては今のところ、益々ソヴェト生活そのものの中へ、
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