@伸子も素子もそれぞれに働きながら、困ったと思った。素子が、
「ソコーリスキーがおねがいしませんでしたか」
ときいた。
「あのひとは、そのことをあなたにお話ししなければならなかったわけです」
「ソコーリスキーは話しました。けれども、わたしの夫がいま出張中なのです。この部屋をおかししたことさえ、彼は知らないんです」
 ソコーリスキーが何かの関係でことわりにくいルケアーノフの細君をときふせて、部屋のやりくりをさせたことはいよいよ明瞭になった。ゆっくり口をきく真面目な細君は、伸子たちに対して、主婦としてはっきりしたことの云いきれない極りわるさとともに、夫に独断で外国人を家庭に入れたりしたことに不安を感じているのだった。
「いいじゃないの、パッサージへたべに行けば」
 日本語で伸子が云った。
「うちの人が気持いいんだもの」
 素子が、むしろ細君の不安をしずめるように、
「かまいませんよ」
と云った。
「何とかなります。心配なさらないでいいんです」
「オーチェン・ジャールコ(大変残念です)」
 心からの声で細君がそう云った。しばらく考えていて細君としては些細《ささい》な、けれども伸子たちにとっては大いに助かる申し出が追加された。
「お茶は、わたしどものところで用意できます。朝と晩――」
 翌々日出張さきから帰って来たルケアーノフは、物の云いかたも服装も地味な五十がらみの小柄な撫で肩の男だった。大して英雄的な行動もなかったかわり、正直に一九一七年の革命を経験して、実直に運輸省の官吏として働いている、そういう感じの人物だった。ルケアーノフの眼も、細君の眼と同じ暖い鳶色をしている。二つのちがいは、ルケアーノフの眼の方が、細君の眼の明るさにくらべて、いくらかの憂鬱を沈めているだけだった。娘が二人いた。やせて小柄で気取っている上の娘は去年モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学を卒業してどこかへ勤めている。下の娘は、来年専門学校へ入るぽってりとした母親似の少女で、母親よりもっと澄んだ鳶色の眼に、同じ色の艷のいい髪をおかっぱにしている。この下の娘が伸子たちの室へ茶を運んで来た。ドアをゆっくり二つノックして、
「いいですか?(モージュノ?)」
 どこかまだ子供っぽい声で、ゆっくり声をかけ、ついにっこりする笑顔で茶の盆をさし出した。
 ルケアーノフの質素な家庭には、伸子と素子の語学の
前へ 次へ
全873ページ中282ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング