フ舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からひきあげ、吉之助たちがベルリンへ行って二週間とすこしたったある朝のことだった。朝の茶を終ったばかりの伸子たちの室の戸がノックされた。素子が大きな声で、
「お入りなさい」
とロシア語で云った。
 ドアがあいて、そこに現れたのは黒っぽい背広をきた吉之助だった。
「ただいま!」
 吉之助は、ベルリンへ行けるときまったとき、見て来ます、と簡明に力をこめて云った、あの調子でただいまと云った。
「ゆうべ帰って来ました、こんどはここへ部屋をとりましたからどうぞよろしく」
 握手の挨拶をしながら伸子が、
「ひどく早かったんですね」
と、おどろいた。
「そんなに早くいろんな芝居が見られたの?」
「ええ。マチネーと夜と必ず二度ずつ見ましたから」
 素子は、思いがけず吉之助の姿があらわれたのを見てかすかに顔を赧《あか》らめていたが、しっとりした調子で、
「何時についたんです」
ときいた。
「よく部屋がとれましたね」
「ええ。カントーラ(帳場)の人が顔をおぼえていてくれましてね。パジャーリスタ、コームナタ(どうぞ、部屋)って云ったら、ハラショー、ハラショーでした」
「どこです?」
「この廊下のつき当りの左の小さい室です」
「ああ、じゃあ一番はじめわたしたちがいた室だ。ね、ぶこちゃん」
 それは雪の夜アーク燈にてらされて中央郵便局の工事場が見えた部屋だった。
 ベルリンへ行くということが、むしろ一行のあとにのこって自由行動をとるための一つのきっかけであったように、吉之助は一人になってベルリンからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ戻って来た。そして、外国人はめったにとまらない、やすいパッサージ・ホテルにとまった。
 秋山宇一や内海厚が同じパッサージに泊っていた時分、伸子も素子もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活に馴れなかったこともあって、気やすくその人たちの部屋をたずねた。こんど吉之助の部屋が同じ廊下ならびになったが、伸子も素子も吉之助の室へは出かけなかった。吉之助がちやほやされつけている若い俳優であるということは伸子たちに理由もなく彼の部屋を訪ねたりすることに気をかねさせた。それにレーニングラードのジプシー料理屋のスタンドのかげで素子の吉之助に対する好意がわかっているものだから、なお更彼の部屋へ訪ねかねた。二三
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