ネかなかいいね」
と伸子に云ったことがあった。それは、レーニングラードのジプシーの音楽をききながら食事をする店でのことで、素子と伸子とはスタンドのついた小卓にさし向い、素子はグルジア産の白い葡萄《ぶどう》酒をのんでいた。吉之助、なかなか、いいねと素子が云ったとき、伸子は素子の眼や頬がいつもとちがった艷《つや》やかさをたたえているのを感じた。
「そう思う?」
 のまない葡萄酒のコップをいじりながら、伸子は、ききかえした。
「――ぶこちゃんだってそう思うだろう?」
 素子が、俳優としての吉之助だけを云っているのでないことを伸子は女の感覚で直感した。軽いショックで伸子は上気した。素子がいいと思う男がいたということは思いがけない一つのおどろきであった。そして、それが伸子も好感をもっている長原吉之助だということは。しかし、その長原吉之助だから素子がすきというのもわかるところがあるのでもあった。素子の珍しいその心持のうごきを、伸子は自分の手もそえて、こぼすまいとするような気持で、だまってスタンドの灯に輝く琥珀《こはく》色の葡萄酒を見ていた。でも、吉之助に対する素子のそのこころもちは、どう発展するものなのだろう。素子自身は、どう発展させたいと思っているのだろう。
 一途《いちず》な、子供らしい恋愛の経験しかない伸子は、ぱらりとした目鼻だちの顔に切迫したような表情をうかべて、スタンドのクリーム色の光の中から素子を見あげた。
「あなた、本気なら、話してみたら?」
「…………」
「じゃ、わたしが話す?」
 素子はだまったまま、葡萄酒をのみ、スタンドのかさのまわりでタバコの煙がゆるやかに消えて行くのを見まもっている。じゃ、わたしが話す? 思わずそう云って、伸子は、当惑した。素子に対して吉之助がどう思っているか、知りようもなかったし、仮に、互の間にいい感情があったにしろ、吉之助の歌舞伎俳優としてのこまごました生活の諸条件と断髪で洋装の素子とはどうつながるものなのだろう。素子が吉之助にひかれるのはわかるけれど、二つの生活の結びつく現実的な必然が見つからなくて、伸子はとまどう心持だった。
 当の素子よりも解決にせまられているような伸子の表情をいくらかぼっとしたまなざしで眺めていた素子はやがてゆっくり、
「まあ、いいさ」
とひとりごとのように云った。そして、給仕をよんで勘定をさせはじめた。

 
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