ォ片仮名ワ、1−7−82]の人々にまじって歩きながら、伸子はこの群集の流れの中で、あの赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を負っているのは自分だけだと思うと変な気がした。わきに並んで、時々腕をくみ合わせたりして歩いている素子にさえ、伸子のその奇妙な感じはわかっていない。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活は、伸子を、日本にいたときはあることさえわからなかった広い複雑な社会現象のなかへつき出した。伸子はそれだけ自由にのびやかになった。そしたら、これまで気づかずにいたいろんな意味での赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]が、自分にかかっていて、周囲に動いているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人たちにはかかっていないことを、見出しているのだった。
 こういう心の状態で夜の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》を散歩しているときなどに、伸子がもうちょっとで素子に話しそうになっては、話さなかった一つの気もちがあった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る年の秋、駒沢の奥の家に素子と住んでいたころ、素子が買って来て伸子も読んだブハーリンの厚い本の中に書いてあったことにつながっていた。駒沢の、柘榴《ざくろ》の樹のある芝生に庭を眺めながら伸子はその本をよんで、今日の社会で資本というものが演じている役割や働く階級の歴史的な意味を知り、自分たちの属している小市民層というものの、どっちへでも動く可能をもった浮動的な立場の本質を知った。そのころ、伸子は父の泰造の建築家という仕事がもっている社会的な関係に新しく目をひらかれた。たとえ泰造がローヤル・アカデミーの特別会員であろうとも、アメリカの建築学会の名誉会員であろうとも、今の日本で建築家として働く佐々泰造は、日本の、建築工事を起すだけの金のある人々に奉仕するものであることを伸子は知った。そうわかって、泰造が折にふれてもらしていた依頼者の我ままな注文に対しての鬱憤に、娘として同情をもった。
 ところが、赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]は、伸子のその理解を、もう一遍ひっくりかえしにして見せた。泰造のうそのない役人ぎらいは、そのまま泰造を、金をもっている人々ぎらいの人間にはしてはいないという現実を、伸子は理解したのだった。
 父の泰造のバロン、バロンとよんで話す或る富豪は美術と音楽の愛好者であ
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