塔Jの角まで来た。そこで、立ちどまった。そして、
「宮野さん、どっちです?」
 ふりむくようにしてきいた。折から、左手のゆるやかな坂の方から劇場広場の方向へゆく電車がのんびりした日曜日の速力で来かかっている。
 伸子たちが住んでいる建物の板囲いからいくらも来ていないのに、いきなり素子からそうきかれて、宮野は間誤《まご》ついたらしかった。口のうちで、さあ、とつぶやきながら、うっとうしそうな睫毛をしばたたいた。
「――僕は、『赤い罌粟』の切符を買いに行っておきましょう」
「じゃ」
 素子が、鞣帽子をかぶっている頭をちょいと下げて会釈した。
「わたしたち、こっちですから……」
 宮野は鳥打帽のふちに手をかけた。
「レーニングラードへいらっしゃることもあるでしょうから――いずれまたゆっくりあちらでお目にかかります」
 こうして宮野は電車の停留場のところへのこった。
 伸子たちは、自然、停留場のあるその町角をつっきって、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》へ入った。並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》も、よごれた雪の堆積がまだどっさりあるけれども、真中にひとすじ、柔かなしっとりした黒い土があらわれている。名残りの雪がその辺の到るところにあるだけに、その間にひとすじのあらわれた黒い土は、胸のときめくような新鮮さだった。艷と、もう芽立ちの用意のみえる並木道の菩提樹や楓《かえで》のしなやかさをました枝のこまやかなかげは、その樹々の根っこに残雪をもって瑞々しさはひとしお感覚に迫った。
 得体のしれない客に気分を圧しつけられていた伸子はしっとりした黒い土の上の道を、往き来の群集にまじって歩きながらふかい溜息をつくように、
「ああ、防寒靴《ガローシ》をぬいでしまいたい!」
と云った。冬のぼてついたものは、みんな体からぬいでしまいたい。早春の日曜日の並木道は、すべての人々をそういう心持にさせる風景だった。それでも、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]人は北方の季節の重厚なうつりかわりをよく知っていて、まだガローシをぬいでいるものはなかったし、外套のボタンをはずしているものもなかった。とける雪、暖くしめった大地、芽立とうとしている樹木のかすかな樹液のにおい。それらが交りあって柔かく濃い空気をたのしみながら、伸子と素子とはしばらくだまって並木道《
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