A伸子はかけおりて外へ出た。菩提樹の根もとを深い雪が埋めている大使館の庭の柵のそばに立って、そのハガキをよみだした。読みながら伸子は無意識に一二度そのハガキの面を、茶色の鞣手袋をはめた指さきで払うようにした。保の字は例のとおり細く力をぬいたうすいペン字で、こまかく粒のそろった字面が、遠いところをもまれて来たハガキの上で毛ばだち、読めはするのだけれども伸子のよくよく読みたい感情には読みにくいのだった。
「姉さん、僕にあてて書いてくれた手紙をありがとう」
先ず冒頭にそう書いてある。伸子は、よかった、と思った。多計代は、あんなに当然なことのように保に書いた伸子の手紙を勝手に開け、読み、おこってよこした。それでも伸子の手紙を保からかくしてはしまわなかった。そういうところは多計代らしいやりかただった。
「僕は、姉さんの手紙を幾度も幾度もくりかえして読んだ。いま、返事を書きはじめる前にも、また二度くりかえして読んだ。そして姉さんのいうことは正しいと思う。姉さんが外国へ行って、まるでちがう生活をしていても、僕のことをこんなに考えていてくれるということがわかって、僕は、ほんとにびっくりした」
簡単に云いあらわされている文句のなかに、保が、姉・弟としての自分たちの関係について改めて感じなおしている気持が、はっきり伸子につたわった。
「姉さんが温室について書いてよこしたことは、もちろんただ僕を責めたり叱ったりしているのではない。また、温室をこしらえて下すったことを非難しているわけでもない。僕にそのことはよくわかる。姉さんは、僕に、もっとひろい社会の関係を知らそうとしただけなのだ」
伸子は、涙ぐむようになった。保の書いている調子は重々しく真面目で、そこには、姉である伸子のいうことをちゃんと理解しようとしている心が滲《にじ》んでいるばかりでなく、保自身、自分のうけとりかたの正当さを、周囲に確認させようとしてつよくはりつめている意志が感じられた。保の書きぶりは、伸子のかいたあの手紙一通のために動坂の家の食堂でまきおこされた論判の光景を思いやらせた。
「僕は温室について姉さんの考えるようなことは一つも考えていなかった。これは大変恥しいことだと思う」
最後の一行のよこに線が引いてあった。字を書いているのと同じ細いうすいペンの使いかたで、これは大変恥しいことだと思う[#「これは大変恥しいこ
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