キ」
 なぜそう思ったんだろう。そう考えながらだまっていくらか仰向きかげんに向いあって立っている伸子の顔に、捲毛の女主人は瞬間全く別なことを考えている視線をおとした。が、やがてすぐ気がついたように、
「じゃあ、さようなら」
 伸子に向って手を出した。
「さようなら」
 入口をしめて雪の往来に出たとき、伸子は、やっぱりこのひとも、心の底では本当に部屋をかしたかったのだと、あわれな気がした。舞台の上にいるように、扮装だらけのいろんな表情で日々を送りながら、真実には不安があるのだ。伸子に向って云うというより自分に向って云ったような女主人のニーチェヴォの調子を思いかえしながら、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊社へ行く方角に歩いた。
 ニキーツキー門のところまで来たら、丁度|並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》まわりの電車が、屋根の上に白くて円い方向番号をつけて通過するところだった。そのために縦の交通が遮断された。伸子のすぐわきの歩道で、支那女が、濃い赤や黄の色糸でかがった※[#「毛にょう+(鞠−革)」、読みは「まり」、第4水準2−78−13]を、ゴム糸に吊り下げて弾ませながら売っている。※[#「毛にょう+(鞠−革)」、第4水準2−78−13]のはずむのを見まもっているうちに、伸子は、ふっとあることを思いついた。
 むきかわって、もと来た道を、二つ股のところまで戻り、左をとって大使館の陰気な海老茶色の門をくぐった。
 事務室のある二階へのぼって、廊下の受信箱をのぞいた。伸子のかん[#「かん」に傍点]はあたった。細紐で一束にくくられた新聞雑誌が、サッサと書いた仕切り棚へ入っている。シベリア鉄道は、一週のうちきまった日にしか通っていないのだから、さきおとといのように多計代からの手紙だけが一通別に届くということはあり得なかった。
 伸子は、何となしはずみのついた気持で、棚に入れられている郵便物をすっかりさらい出した。そして、一段一段とのろのろ二階を下りながら、紐の間をゆるめるようにして、どんな雑誌が来たのか、のぞいた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからずっと送ってもらっている中央公論。婦人公論。その間に大型の外国郵便用ハガキが一枚まぎれこんだように挾まっているのをみつけた。保の字だ。
 丁度壁が高くて薄暗くなった階段口を
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