@頭をひとりうなずかせながら、すこし鼻にかかるようになった声で云った。
「寒い国の人は、みんなそうですがね」
「空気が乾燥しているから、これだけのめるんですよ」
 やっぱり大してのめない内海厚が、テーブルの上に置いたままあったウォツカの杯をとりあげて、試験管でもしらべるように、電燈の光にすかして眺めた。それに目をとめてアレクサンドロフが、
「内海さん、ウォツカの実験をする一番適切な方法はね、視ることじゃないんです、こうするんです」
 唇にあてた杯と一緒に頭をうしろにふるようにして自分の杯をのみほした。
「日本の酒は、啜《すす》るのみかたでしょう? 葡萄酒のように――」
「啜ろうと、仰ごうと、一般に酒は苦手でね」
 内海が、もう酒の席にはいくぶんげんなりしたように云った。
「日本の神々のなかには、大方バッカスはいないんだろうよ。あわれなことさ!」
 伸子はハンカチーフがほしくなった。カフスの中にもハンド・バッグの中にもはいっていない。そう云えば、出がけにいそいで外套のポケットへつっこんで来たのを思い出した。伸子は席を立って、なか廊下を玄関の外套かけの方へ行った。そして、ハンカチーフを見つけ出して、カフスのなかへしまい、スナップをとめながらまたもとの室へ戻ろうとしているところへ、むこうからポリニャークが来かかった。あまりひろくもない廊下の左側によけて通りすがろうとする伸子の行手に、かえってそっち側へ寄って来たポリニャークが突立った。
 偶然、ぶつかりそうになったのだと思って伸子は、
「ごめんなさい」
 そう云いながら、目の前につったったポリニャークの反対側にすりぬけようとした。
「ニーチェヴォ」
という低い声がした。と思うと、どっちがどう動いたはずみをとらえられたのか、伸子の体がひと掬《すく》いで、ポリニャークの両腕のなかへ横だきに掬いあげられた。両腕で横掬いにした伸子を胸の前にもちあげたまま、ポリニャークは、ゆっくりした大股で、その廊下の左側の、しまっている一室のドアを足であけて、そこへ入ろうとした。その室にはスタンドの灯がともっている。
 あんまり思いがけなくて、体ごと床から掬いあげられた瞬間伸子は分別が消えた。仄暗《ほのぐら》いスタンドの灯かげが壁をてらしている光景が目に入った刹那、上体を右腕の上に、膝のうしろを左腕の上に掬われている伸子は、ピンとしている両脚のパ
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