lにはちっとも面白くない。それだから僕がソヴェト魂をもっていないとでも云うのかい?――アキヤマさん」
 ウォツカの瓶とともに、ポリニャークは秋山にむいて云った。
「あなたは『トルビーン家の日々』を面白いと思いますか?」
「あれは、むずかしい劇です」
 それだけロシア語で云って、あとは内海厚につたえさせた。
「特に外国人にはむずかしい劇です。心理的な題材ですからね。科白《せりふ》がわからないと理解しにくいです」
 一九一七年の革命の当時、元貴族や富裕なインテリゲンツィアだった家庭に、たくさんの悲劇がおこった。一つの家庭のなかで年よりは反革命的にばかりものを考え行動するし、若い人々は革命的にならずにいられないために。或る家庭では、またその正反対がおこったために。「トルビーン家の日々」は、革命のうちに旧い富裕階級の家庭が刻々と崩壊してゆかなければならない苦しい歴史的な日々をテーマとしていた。科白がわからないながら、伸子は、雰囲気の濃い舞台の上に展開される時代の急速なうつりかわりと、それにとり残されながら自分たちの旧い社交的習慣に恋着して、あたじけなくみみっちく、その今はもうあり得ない華麗の色あせたきれっぱじにしがみついている人々の姿を、印象づよく観た。
「サッサさん、どうでした? あの芝居は気にいりますか?」
「いまのソヴェトには、『装甲列車』の登場人物のような経験をもっている人々もいるし、『トルビーン家の日々』を経験した人々も、いるでしょう? わたしは、つよくそういう印象をうけました。そして、あれは決してロシアにだけおこることじゃないでしょう。――吉見さん、そう話してあげてよ」
「いやに、手がこんでるんだなあ」
 ウォツカの数杯で、気持よく顔を染めている素子が、そのせいで舌がなめらからしく、ほとんど伸子が云ったとおりをロシア語でつたえた。
「サッサさん、あなたは非常に賢明に答えられました」
 半ば本気で、しかしどこやら皮肉の感じられる調子でポリニャークが、かるく伸子に向って頭を下げた。
「僕は、あなたの理解力と、あなたの馬鹿馬鹿しいウォツカぎらいの肝臓に乾杯します」
 舞台の時間が来てポリニャーク夫人が席を去ってから、ポリニャークが杯をあける速力は目立ってはやくなった。
 秋山宇一は額まで赫くなった顔を小さい手でなでるようにしながら、
「ロシアの人は酒につよいですね」

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