を見直した。こんな低音でものを云うひとに、はじめて出会った。それが自然の地声と見えて、ノヴァミルスキーというその人は瀬川に紹介された伸子たちに、やっぱり喉仏が胸の中にずり落ちてでもいるような最低音で挨拶した。彼の手には、さっきゴルシュキナが、もう一つのデスクの婦人にわたした水色の紙片がもたれていた。
「一寸おまち下さい」
その室を出て行ったノヴァミルスキーは程なく戻って来た。そして、
「カーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人は、よろこんでお目にかかるそうです」
例の最低音で云いながら、社交界の婦人にでもするように伸子たちに向って小腰をかがめた。
ドアの開けはなされたいくつかの事務室の前をとおりすぎて、三人はその建物の奥まった一隅に案内された。たっぷり首から上だけ瀬川より背の高いノヴァミルスキーが、一つのドアの前に立って、内部へ注意をあつめながら慎重にノックした。若くない婦人の声が低く答えるのがきこえた。ノヴァミルスキーは、ドアをあけ、
「プロフェッソル瀬川」
と声をかけておいてから、
「さあ、どうぞ」
自分はそとにのこって、ドアをしめた。
そこは、明るい灰色と水色の調子で統一された広い部屋であった。よけいな装飾も余計な家具もない四角なその広間の左奥のところに立派なデスクがあった。その前に白ブラウスに灰鼠色のスーツをつけた断髪の婦人がかけて、書類をみていた。四十歳と五十歳との間ぐらいに見えるそのがっしりした肩幅の婦人は、瀬川や伸子たちが厚いカーペットの上を音なく歩いて、そのデスクから五六歩のところへ来るまで、手にもっている書類から視線をあげなかった。
「こんにちは。お忙しいところを暫くお邪魔いたします」
いんぎんな瀬川の言葉で、その婦人は書類から目をあげた。
「こんにちは」
そして、椅子から立ち上って、伸子たちに向って、辛うじて笑顔らしいものを向けた。伸子には、彼女のその第一印象がほんとに異様だった。男きょうだいのトロツキーにそっくりの重たくかくばった下顎をもっているカーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人は、じっと三白の眼で対手を見つめながら、奥歯をかみしめたまま努めて顔の上にあらわしているような笑顔をしたのであった。伸子は若い女らしく、ぼんやりした畏怖《いふ》をその表情から感じた。
瀬川雅夫は、夫人のそういう表情にももう馴れて
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