ゥないで、伸子はつづけた。
「保さんのこしらえて頂いた温室というのがいくらかかったかは知らないけれども、それは少くとも、貧しい高校生の一年分の月謝よりどっさり費用がかかっているでしょう。保さんはそのことを考えてみたでしょうか。そして、公平に云えば、それだけの金がないばかりに、保さんよりもっと才能もあり人類に役に立つ青年が泥まびれで働いているかもしれないということを考えてみたでしょうか。こういういろんなことを、保さんは考えてみて? 想像の力のない人間は、思いやりも同情もまして人間に対する愛などもてようもありません」
 保に向ってかいているうちに、みんなが旺《さかん》な食慾を発揮しながら、あてどなく時間と生活力を濫費している動坂の家の暮し全体が伸子にしんからいやに思われて来た。
「保さん、あなたこそ青春の誇りをもたなければいけないわ。自分のもてるよろこびをたっぷり味うと一緒に、それが、この社会でどういう意味をもっているかということは、はっきり知っているべきです。いただくものは、無条件に頂くなんて卑屈よ。持つべきものは、主張しても持たなければならないし、持つべきでないものは、下すったって、頂いたって、持つべきではないと思います」
 伸子の感情の面に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]第一大学の光景がいきいきと浮んできた。冬日に雪の輝いている通りを大学に向って行くと、雪を頂いた円形大講堂の黄色い外壁が聳えている。その外壁の上のところを帯のようにかこんで、書かれている字はラテン語でもなければ、聖書の文句でもなかった。「すべての働くものに学問を」モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]第一大学の黄色い円形講堂の外壁にきょうかかれているのは、その文字だった。
「保さん、この簡単なことばのふくんでいる意味はどれほどの大さでしょう。この四つの言葉は、この国で人間と学問との関係が、はじめてあるべきようにおきかえられたという事実を示しています。人間も、学問をすべてのひとの幸福のために扱うところまで進歩して来たという事実を語っています。わたしは、きのうもそれを見て来たばかりなのよ。そして、この古いモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の壁にその字がかかれたときのことを思って、美しさと歓喜との波にうたれるようでした。そしてね保さん。ソヴェトの青年は、この文字を頂いた[
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