驕B伸子はその下の、粗末な長椅子の上で横むきに足をのばし、くつしたをつくろっている。女学生っぽい紺スカートの襞《ひだ》が長椅子のそとまでひろがって、水色ブルーズの胸もとに、虹のような色のとりあわせに組んだ絹紐がネクタイがわりにたれている。
すぐ手の届くところまでテーブルがひきよせてあった。日本風の紅絹《もみ》の針さしだの鋏だのがちらばっていて、そのかたわらに一冊の本がきちんとおいてある。白地に赤で、旗を押したてて前進する群集の絵が表紙についていた。「世界を震撼させた十日間」ジョン・リード。ロシア語で黒く題と著者の名が印刷されている。その本はまだ真新しくて、きょうの午後から、伸子の語学の教科書につかわれはじめたばかりだった。
薄黄色いニスで塗られた長椅子の腕木に背をもたせて針を動かしている伸子の、苅りあげられたさっぱりさが寂しいくらいの頸すじや肩に、白い天井からの電燈がまっすぐに明るく落ちた。伸子はその頸をねじるようにして、ちょいちょいテーブルの上へ眼をやった。向い側の建物の雪のつもった屋根の煙突から、白樺薪の濃い煙が真黒く渦巻いて晴れた冬空へのぼってゆくのが見えた部屋で、マリア・グレゴーリエヴナが熱心と不安のまじりあった表情で、新しい本の第一頁を開き、カデットとか、エスエルとかいうケレンスキー革命政府ごろの政党の関係を説明してくれた顔つきが思いだされた。そういういりくんだ問題になると、伸子の語学の力ではマリア・グレゴーリエヴナの説明そのものが半分もわからなかった。針に糸をとおしながら、伸子はあっちの窓下の緑色がさのスタンドにてらされたデスクで勉強している素子に声をかけた。
「あなた、ちかいうちに国際出版所《メジュナロードヌイ》へ行く用がありそう?」
「さあ……わからない」
「行くときさそってね」
「ああ……」
カデットとかエスエルとか、そのほかそういう政治方面の辞書のようなものが必要になって来た。
伸子は、気がついて、保か河野ウメ子かにたのんで日本語のそういう辞典を送ってもらうのが一番いいと思いついた。日本でもそういう本はどんどん出版されていた。言海はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へももって来ているが、社会科学辞典がこんなに毎日の生活にいるとは思いつかなかった伸子だった。あんなに用意周到だった素子も蕗子もそのことまでにはゆきとどかないで来てしま
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