ネ上あなたがたに何一つ迷惑をかけなかったということを主張するでしょう。部屋を出てゆかなければならない個人的[#「個人的」に傍点]理由なんか、一つもありはしない!」

 ルケアーノフが去ってから、伸子も素子もややしばらくものを云わなかった。
 やがて素子が、自嘲もふくむいろいろな気持を、ともかくその一点へ集めてあらわすというように、
「なんだ! びくびくして!」
 口のはたに皮肉な笑いをうかべた。
「こっそり儲けて来ているもんだから、今更、おっかなくてたまらなくなったんだろう」
 ルケアーノフについて、何と云ってみたところで、十日後に伸子と素子に住むところがなくなるという事実がどう変化するだろう。
 ぐるりの人々からの民族的な偏見がちっともないために自分たちが外国人[#「外国人」に傍点]であることを忘れたように暮して来た月々について、伸子は思いかえした。「赤い星」にスターリンの富農絶滅の論文が出るすこし前、レーニングラードで大規模の陰謀が発見されていた。ドン・バス炭坑区の生産破壊計画の間にも、外国人[#「外国人」に傍点]は主役を演じた。「外国人」に対するソヴェトの人々の警戒と立腹とには、よその国の人たちが外国人に対してもっている偏見や先入観などとまったくちがう理由があるのだった。ソヴェトの人々の警戒と立腹とは、一人一人の外国人の誰彼についていうより、もっと大きく、ソヴェト社会を毒害しようとする帝国主義一般にむけられている。
 伸子は、ソヴェト社会の根本からのちがいについて感動をもって実感しながら、ストルプツェの国境駅を通過し、パリからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来た。ここの者[#「ここの者」に傍点]と自分を感じて伸子は帰って来ているのだった。しかし、外面にあらわれている伸子たちのアストージェンカでの暮しには、心のうちにある善意がどれほど行動されていると云えたろう。伸子の精神のなかに熟しかけていて、ひそかに期待するところのある未来の人生も、それは、素子にさえもうちあけてはいない伸子の心のうちでだけの変化だった。
 いまのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、伸子の主観にまで事こまかにたちいっている暇のない人々の必要から生れた処置。――そのことは伸子によくわかる。
 伸子は、悲しさを抑えた眼で素子を見た。
「どうする? パッサージできいて
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