B短い鉛筆を、右手にもち左手は上衣のポケットにおさめ、黒ずくめのカチャーロフが、舞台の下に立って、錆びのある声で、吹雪の中を去ってゆくネフリュードフを追って遂に失神するカチューシャの歎きを物語ったとき、満場の観客はひき入れられて、カチャーロフと一身一体のようだった。あの充実した見事さ。――だが、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではどんな芸術家も、破綻のない「完成」にだけおさまってはいられないのだ。「風呂」が失敗であるにしろマヤコフスキーは、自分をひろい地帯へと押しだした……
 考えこんでいた伸子を我にかえらせて誰かがドアをノックした。
「どうぞ」
 デスクに向いたまま伸子は返事した。
「よろしいですか」
 ドアから半身あらわしたのは、伸子たちのいる下宿の主人であるルケアーノフだった。伸子は、ちょっと瞬きした。彼女たちが越して来てから、主人のルケアーノフが自身で室へ訪ねて来たという前例がまだなかった。
「おはいり下さい、どうぞ」
 デスクの前から立って伸子はドアのところへ出て行った。ルケアーノフは、ドアのノッブに片手をかけたまま、
「あなたおひとりですか」
ときいた。
「吉見さんは、正餐《アベード》に帰って来ます」
 ルケアーノフは、栗色の髪がうす禿になっている顔をすこしかしげ、何か考えたが、
「よろしいです」
 いそいでいるが、待とうと決心した口調で云った。
「では、正餐《アベード》のあとで――」
「御都合がよかったら、わたしたちが、あなたのところへ行きましょうか」
「わたしが来ます、では、のちほど」
 ドアをしめて去ったルケアーノフの靴音が、食堂につかわれている隣室のむき出しの床の上に暫くきこえて、やがてクワルティーラじゅうがひっそりとした。
 何かがおこっている。――ルケアーノフと伸子たちとにとって、何か愉快でないことが。その予感を疑うことは出来なかったが、伸子には、たしかに愉快でないにちがいないことの内容が、推察されなかった。
 ことしから必要とされるようになった居住証明の書付。それは伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]・ソヴェトのその係へ行って、つい先日、三ヵ月間の証明をもらって来てある。食糧の配給切符――それはルケアーノフの細君に二人分そっくり渡して伸子たちは賄つきで暮しているのだった。
 素子が帰って来る。その踵を追うようにして
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