フ部分が、完全にカットされてしまったからだった。帝国主義のもつ未開とのコントラストを消されてしまったラマの踊りは、ただ未開アジアの異国風景だった。「アジアの嵐」という一篇の物語の筋は、場面場面の変化につれてのみこめるけれども、エイゼンシュタインが、ひとこま、ひとこまを、強烈に構成して、観衆の実感を湧き立たせたアジアの嵐への呼びかけは、全く気をぬかれてしまっているのだった。
伸子は、蜂谷良作に向って熱心に、パリの「アジアの嵐」ではカットされている部分の面白さや意味について話すのだった。
「エイゼンシュタインは、『十月《オクチャーブリ》』でも、そういう手法をつかっているんです。パッ、パッと、ツァーの写真と日本のおかめ[#「おかめ」に傍点]の面なんかが、かわりばんこに出たりするの。すこし観念的みたいなところがあるけれども、でも、雄弁よ。あんなに切りこまざいた『アジアの嵐』では、まるでアジアに嵐がおこって来る必然性を消しちまってあるんだもの――自然現象みたいに、まるで、ひとりでそんなことが蒙古では起るというお話みたいにごまかしてあるわ、民族の独立ということを――」
話の内容にふさわしい元気な、比較的速い足どりをそろえて、二人はコンコード広場をセイヌ河にかかった橋の方へつっきっているところだった。
「しかしまあ、パリでは、ああいうものも見られるだけいいとするのさ」
蜂谷良作の分別くさい云いかたが、ふと伸子の反駁を誘った。
「……蜂谷さんのような、学者っていうものは、何にでもあんまり感動しない習慣?」
「そんなことあるもんか」
「そうかしら。――わたしからみると、あなたがたは、何となし、自分にわかったことの範囲でおちついているみたいなんだけど」
「たとえば、どういう場合?」
「いまみたいな場合。――あなたは、肝心のところがカットされていても、ともかくここで『アジアの嵐』が見られればまあいいって、おっしゃるでしょう? わたしなら、そういうとき、きっとどうかしてカットのないのが見たい、と思うと思うわ。カットは、映画にされているばかりじゃないんだもの。そして、その気になれば、見られるんだわ」
「どういう風にして?」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行ってみればいいのだ。けれども、伸子はそのことについてはだまった。二年以上もパリにいる蜂谷良作が、まじめにそれを希望
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