シ名ワ、1−7−82]でも、伸子の心に悔恨の感情は湧いたことがなかった。不思議に佃の夢を見なかった。伸子は、佃が次の家庭をもっていて、彼としての満足のうちに生活していることを、よかったと思っていたのだった。そういう佃の幸福は、佃のものであった。佃の幸福の内容が伸子の感じる幸福感とちがう性質のものであるからこそ、伸子は彼といられなかった。羨しさとは、自分にも同じそれが欲しい心に生れる思いであった。伸子は、佃のところであり得る幸福からは、逃れたのだ。
 日光のおどる芝生の間の小道を歩きながら伸子の心に、人の生きかたの哀さの思いが湧いた。
 短い幸福をうけて四十五歳で死んだ佃も、そのように短い間の彼の幸福のために努力して、より大きい努力の必要のうちに三人の子供とともにのこされた夫人のめぐり合わせも、伸子には、気の毒に感じられた。
「お父様が、その育英資金に加わって下すったの、ありがとうございました」
 その晩、一日の終りにいつもそうして時をすごすとおりアーク燈にてらされている公園の木立を見おろすホテルの部屋の窓ぎわに立って、伸子は、公園の散歩で父からきいたことを思いかえしていた。
 悲しみと名づけられるこころもち、涙ぐむこころもち、そういう感傷は、佃が亡くなったときいたときから、伸子のなかになかった。しんとして、まじめにひきしめられた思いがあった。――佃の生涯は終った――佃の生涯は終った――その思いをたどっているうちに、伸子の心は自覚されていなかった一つの区切りのようなものを見出した。佃と自分とのいきさつは、完結した[#「完結した」に傍点]。その事実の新しい確認がある。
 伸子は、これまで、佃に対して、何かの責任を感じながら暮していたのだろうか。伸子にそんな意識はなかった。だけれども、思いがけず佃の亡くなったしらせをきいた今、伸子の心のうちに強くなりまさるのは「完結した」という意識だった。伸子が何もしらなかった今年の四月のあるときに、伸子の過去の生涯に、一つの大きいピリオドがうたれた。伸子はきょうまで何もしらないままモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出発して、ロンドンへ来た。伸子の過去に一つのピリオドがうたれたとき、伸子は知らないままに伸子の新しい生涯の日々を歩みはじめていたのだった。
 両手で顔をおおいながら伸子は夜の公園に開いている窓の前に膝をついていた。
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