りながら、
「まあ、おかけなさい」
 格別自分のかけている椅子をどこうともしないで云った。三人はだまっていた。すると、比田がその男に、
「――飯山に会われましたか」
ときいた。
「いいや」
「あなたをさがしていましたよ」
「ふうむ」
 なにか思いあたる節があるらしく、その男は比田から火をもらったパイプをくわえると、大股に広間の方へ去った。
「何の商売かしら――あのかた……」
 そのうしろ姿を目送しながら伸子がひとりごとのように云った。
「軍人さん、ですよ」
 やっぱりその肩のいかつい男のうしろ姿を見守ったまま、伸子の視線は、スーと絞りを狭めたようになった。秋山宇一が、われわれは、こまかく見られている[#「こまかく見られている」に傍点]、と云った、そのこまかい[#「こまかい」に傍点]目は、こういう一行のなかにもまぎれこんでいるのだろうか。
 伸子は、やがてかえり仕度をしながら、
「ここよりベルリンの方がよくて?」
と比田礼二にきいた。
「さあ、ここより、と云えるかどうかしらないが、ベルリンも相当なところですよ、このごろは。――ナチスの動きが微妙ですからね。――いろいろ面白いですよ。ベルリンへはいつ頃来られます?」
「まるで当なしです」
「是非いらっしゃい。ここからはたった一晩だもの。――案内しますよ。僕が忙しくても、家の奴がいますから……」
「御一緒?」
「――ドイツで結婚したんです」
 その室の入口のドアまで送り出した比田礼二と、伸子は握手してわかれた。
 藤堂駿平の一行で占められているサヴォイ・ホテルの奥まった一画から、おもての方へ深紅色のカーペットの上を歩いて行きながら、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる同じ新聞の特派員の生活を思いうかべた。その夫婦は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難からある邸の温室を住宅がわりにして、そのガラス張りの天井の下へ、ありとあらゆるものをカーテン代りに吊って、うっすり醤油のにおいをさせながら暮しているのだった。
 棕梠の植込みで飾られたホテルの広間から玄関へ出ようとするところで、
「おお、サッサさん、おめにかかれてうれしいです」
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には珍しい鼠色のソフトを、前の大きくはげた頭からぬぎながら伸子に向って近よって来るクラウデに出あった。一二年前、レー
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