H」
と云った。
「このごろ、海峡《チャネル》でおっこちたって話はちっともきかないじゃないの」
「それより、姉さん、船に弱いんじゃなかったかな」
「弱いわ」
「吉見さんはいかがです」
「さあ、わかりませんね。しかし、昔大島通いの船じゃ散々でしたね」
「それじゃ二人とも、あやしいんじゃないですか。やっぱり相当酔うものらしいですよ」
「そこがいいところなのよ。吉見さん、ロンドンへ三日しかいないなんてがんばっているんだもの、あとで何がおもい出せるもんですか。だからね、たしかにドーバアを越えたっていうことを一生忘れないためには飛行機で行っておいた方がいいのよ」
「それにしても、いまごろは、おやじさん、さぞ感慨無量で二十年ぶりのロンドンを歩いているんだろうなあ」
そういう和一郎の顔つきには、自分たちもパリで解放された朝夕をたのしみ味っている満足と寛容さがあった。
「お父様の御様子、目に見えるようだわねえ」
伸子は、小枝の実感のこもった云いかたに笑えた。
「小枝ちゃんのおとうさまっていうのは、いつでもワグラムの通りをあっちから歩いて来るんじゃない?」
朝っぱらからワグラムのカフェーにいるところを、思いがけなく通りかかった泰造に発見されて、若夫婦の信用が徹底的に失墜した小事件があった。和一郎がとうとう自分たちの旅費は自分たちの自由にさせてもらおう、と親たちにつめよって行くようになった。彼のそんな感情の鬱積や嶮《けわ》しさも、いまのような気まかせなパリのアパルトマン暮しの中でおだやかに溶け去っているように見える。両親の留守をペレールで暮しはじめた和一郎の主人ぶりがあんまりなごやかであるだけ、伸子は姉として、その正反対の極にうつった場合の和一郎のむずかしさを思い比べずにいられないのだった。
しかし小枝は、今夜は今夜の和一郎のいい機嫌をそれなり幸福として、ほの明るみに輝やいている若妻だった。
「お母様もロンドンなら、御自分のおつき合いもおありになるから、ほんとにいいわ」
しかし、ロンドンのホテルで多計代の帯をしめてやっているのは泰造だろうか。それともつや子だろうか。小枝はその連想へまで自分をひきこむ気持のない明るさ、はなやかさで、
「お母様の英語って、しっかりしていらっしゃるのね。びっくりしたわ、船で話していらっしゃるのを伺って……」
「そりゃ、あの時代は、津田梅子先生じきじ
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