ていた。比田礼二――伸子は何かを思い出そうとするような眼つきで、やせぎすの、地味な服装のその記者を見た。いつか、どこかで比田礼二という名のひとが小市民というものについて書いている文章をよんだ記憶があった。そして、それが面白かったというぼんやりした記憶がある。伸子は、名刺を見なおしながら云った。
「比田さんて……お書きになったものを拝見したように思うんですけれど――」
「…………」
 比田は、苦笑に似た笑いを浮べ、口さきだけではない調子で、あっさりと、
「あんなものは、どうせ大したもんじゃないですがね――」
と云った。
「あなたのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]観がききたいですよ」
「……なにかにお書きになるんじゃ困るわ、わたしは、ほんとに何にもわかっていないんだから」
「そういう意味じゃないんです。ただね、折角お会いしたから、あなたのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]印象というものをきいてみたいんです」
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]というところは、不思議なところね。ひとを熱中させるところね――でも、わたしはまだ新聞ひとつよめないんだから……」
 はじめ元気よく喋り出して、間もなく素直に悄気た伸子を、その比田礼二という記者は、いかにも愛煙家らしい象牙色の歯をみせて笑った。
「新聞がよめないなんてのは、なにもあなた一人のことじゃないんだから、心配御無用ですよ。――ところで、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のどういう所が気に入りましたか? 新しいところですか――古さですか」
「私には、いまのところ、あれもこれも面白いんです。たしかにごたついていて、そのごたごたなりに、じりじり動いているでしょう? 大した力だと思うんです。何だか未来は底なしという気がするわ。――ちがうかしら……」
「…………」
「空間的に最も集約的なのはニューヨーク。時間的に最も集約的なのがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]……」
 比田は、ポケットから煙草ケースをとり出して、ゆっくり一本くわえながら、
「なるほどね」
と云った。そして、すこしの間だまっていたが、やがて、
「ところで、あなたはロシアの鋏ということがあるのを御存じですか」
ときいた。伸子は、そういうことばを、きいたことさえなかった。
「つまりあなたの云われる、ロシアの可能性の土台を
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