云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は、どうです? 気に入りましたか。――うちへはちょいちょい手紙をかきますか?」
 伸子が、簡単な返事をするのを半分ききながら、藤堂駿平は鼻眼鏡の顔を動かしてそのあたりを見まわしていたが、むこうの壁際で四五人かたまっている人々の中から、灰色っぽい交織の服を着て、いがくり頭をした五十がらみの人をさしまねいた。
「伸子さん。このひとは、漢方のお医者さんでね。このひとの薬を私は大いに信用しているんだ。紹介しておいて上げましょう。病気になったら、是非この人の薬をもらいなさい」
 漢方医というひとに挨拶しながら伸子は思わず笑って云った。
「おかえりまでに、わたしがするさきの病気までわかると都合がいいんですけれど」
 藤堂駿平のソヴェト滞在はほんの半月にもたりない予定らしかった。
「いや、いや」
 灰色服をきたひとは、一瞬医者らしい視線で伸子の顔色を見まもったが、
「いたって御健康そうじゃありませんか」
と言った。
「わたしの任務は、わたしを必要としない状態にみなさんをおいてお置きすることですからね」
 誰かと話していた藤堂駿平がそのとき伸子にふりむいて、
「あなたのロシア語は、だいぶ上達が速いそうじゃないか」
と云った。伸子は、自分が文盲撲滅協会の出版物ばかり読んでいることを話した。
「ハハハハ。なるほど。そういう点でもここは便利に出来ている。――お父さんに会ったら、よくあなたの様子を話してあげますよ。安心されるだろう」
 その広い部屋から鍵のてになった控間の方にも、相当の人がいる。みんな日本人ばかりで、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからはじめて、これだけの日本人がかたまっているところをみた。小規模なモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大使館の全員よりも、いまサヴォイに来ている日本人の方が多勢のようだった。藤堂駿平のそばから控間の方へ来て、帰る前、すこしの間を椅子にかけてあたりを眺めていた伸子のよこへ、黒い背広をきた中背の男が近づいて来た。
「失礼ですが――佐々伸子さんですか?」
「ええ」
「いかがです、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は――」
 そう云いながら伸子のよこに空いていた椅子にかけ、その人は名刺を出した。名刺には比田礼二とあり、ベルリンの朝日新聞特派員の肩がきがつい
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