ンツィア出の同志は大抵、監獄へ訪ねて来たり、後ではシベリアへまでついて行こうと云うような婚約者をもっていた。けれども労働者の面会人はその母親だけだった。彼等は孤独だった。面会に来てくれる母親は息子と同じような感激を抱いていなかったから。『母』に描かれているような母と息子との本質的な結合が、大衆の現実の生活にあらわれて来るより前、それはそういう若い労働者にとってどのくらい待たれ希望されていたかということを、シャポアロフは含蓄をもって書いているのであった。
そこに吐露されている真情は、現在重吉の感情の深いところに横《よこた》わっている或るものにふれた。忘れ難い共感と限りない惻隠の情とがあるのであった。だが、こういう娘たちに果してどこまでその感情が真実のものとしてわかり得るものなのであろう。重吉の眼の裡に翳《かげ》がさした。やがてそれが消えた。三人は、入った方とは反対の方角にある公園の門から、濠端へ向った。
三
大きな硝子戸は閉められていて、店内へ入ろうとする人影がさすと、下足番のようにしてそこにいる男がその硝子戸をあけた。止った一台の車から書類入鞄を下げた若い男が先ず歩道へ降り、半ば後をふりかえるようにして番人のあけた硝子戸を入った。毛皮を肩にかけて艶々したオリーブ色のコートを着たずっと年配の女が、ダイヤモンドの目立つ片手を毛皮の襟巻の端にもち添え、おくれて同じ店に入った。
中央にゆるやかな踊場のついた大階段があった。その右手に金釘のどっさり打たれたワードロオブ・トランクなどがあり、ずっとその前を行ったところに男ものの雑貨売場がある。
この店の内部はいつも比較的閑散である。格別いそいでいるのでもない足どりで、新しく来た二人の客はネクタイ売場へとまった。ガラス・ケースの中を一わたり眺め、女が、
「いかが? お気にいるのがありますか」
顔をケースに向けたまま訊いた。男も女の方を見ず、
「さあ……」
気に入ったのが目に入らないと云うよりは、どれが気に入るのか自分でも判らないという工合である。男は、書類入鞄をケースの上にのせて、それに片肱をかけるようにしながら、
「奥さん、見て下さい」
と云った。
「どんなのがいいのかしら」
ケースの上に、ぐるぐる廻して選べるようにしてある分を、帯止めでも廻して見るように見たが、これぞと目をひくのがないらしく、
「あなたは地味な方が似合うのね」
また、ケースの方へ漫然とうつった。それは瑛子であった。ふだん誰のためにもネクタイなどを選んで買ったことがなかったので、こうして田沢に似合うのをと思っても、何だか見当がつきかねるのであった。年の割に化粧の濃い独特の強さと俗っぽさと美しさとの混りあった瑛子の華やかな顔は微かに上気していて、馴れぬ買物をしようとしている女の誰でもがあらわす昂奮とはまた異ったはにかみを浮べている。
細そりとしなやかな体つきの若い女店員がガラス・ケースのあっち側に立っていた。指の節が柔かく窪んで、自然な表情を具えている手を動かして、客をまごつかせない心づかいでその辺をしずかに整理している。瑛子は、
「ちょっと」
と、その女店員を呼んだ。
「その二側目の右から三つめのを見せて下さいな」
「これでございますか」
「ええ、そう」
それは、トゥイード風な茶と緑と黄の混った織物で、わるい趣味ではなかったが、田沢がカラーのところにあててこちらを向くと、蒼白い顔色や眼鏡とその織物との間にそぐわないものが生れた。
女店員は、それを感じている風で、
「こんなお色もございますけれど」
ずっと紺ぽい調子のを出した。
「いいじゃないですか」
二人はそれを包んで貰って、大階段を、極めてゆっくりと並んで二階の図書部へのぼって行く。丁度ネクタイの売場からその後姿が見えた。女店員の高浜みほ子は、上瞼にすーとした勝気らしい美しさのある眼をあげてちょっとその方を眺めた。男が、紺ぽいネクタイを見て、いいじゃないですかと云ったとき、連の女が、あなたがいいのなら、それにおきめなさいなと云った、その声の響には、おのずから今二階の手摺のかげを曲ろうとしている二人の後姿を見送らせるようなものが流れていたのであった。
階下より、寧ろ階上の方が混んでいた。パイプを喞《くわ》えた赭顔白髪の夫と伴立《つれだ》って贅沢なファー・コオトにジェードの耳飾をつけた老夫人が品のいい英語で店員に何かのグラフィックを運び出させている。新刊書の台のまわりには五六人かたまっており、あちらの棚、こちらの棚や特に流行本《ファションブック》や映画、通俗婦人雑誌を並べたところには、ぐるりとその台をかこんで、外国雑誌の鮮やかな印刷の匂いや良質な紙の感触をたのしんでいる主として若い連中がある。
瑛子は田沢と並んで新刊書のあたりをすこしぶらついたが、じき自分だけ高い窓際に置かれている小さい椅子を見つけて、そこへ行ってかけた。
田沢は、瑛子がそこにかけたとき見守っていただけで、あとは瑛子を十分意識しながらそっちは見ず、時々は書類鞄を台の端において上着の前へそれをもたせかけるような姿勢をとり、本を手にとってあっちこっち頁をとばして目を通したりしている。
人数の割に、この店らしい落付いた、アカデミックな静かさとでもいうようなものが広いその場所を領している。瑛子はちょっと鏡をのぞいた。それから大きい窓ガラスを越して、向い側に見えるビルディングのどっさり並んだ窓々や、ずっと彼方の、何をしているのか彼女は知っていない彼女の娘とその二人の連《つれ》の上にも懸っている薄青い空。その中空に浮んでいるアド・バルーンなどを暫く眺めていた。それに飽きると、少し上体の位置をかえて、視野のなかにいつも田沢の横向きや斜向きの姿がつつまれるような工合に顔を向けた。
白い足袋の爪先を厚ぼったい草履ごと折々小さく動かしたりしてはいるが、それは瑛子の我知らずの癖で、彼女の大柄な体全体と顔とには、何とも云えずゆったりした、今の刻々の心地よさが照りかえしている趣があった。艶のある彼女の眼や紅がいくらか乾いてついている唇に、呼べばすぐ応えそうな柔軟さが溢れているのであった。
瑛子が椅子にかけている窓際は、大階段をのぼって来たすべての人が、さてという気持で先ず視線をあげるその真正面に当っていた。それだのに瑛子は、そこから誰が、いつ現れて来ても困ることはないという風な全くの公然さで、人目に立つ自分をそこに置いているのであった。
田沢が選び出したドイツ語の心理学の本の代を瑛子が支払った。片隅に小ぢんまりした茶をのませる席がある。二人は、棕梠の葉の陰になっている小卓を挾んで腰かけた。
田沢は、エアシップに火をつけて、さもうまそうに、きつく吸いこんで、ゆっくり烟をふき出した。
「疲れたでしょう?」
「そうでもない」
片手の指に煙草をはさんだなりコーヒーを一口すすって田沢は、
「――考えるとおかしいな」
と、すこし硬ばったような笑いかたをした。
「宏子さんがここへ入って来たらどうだろう」
瑛子はふっと顔をそらして、堅い声で、
「あのひとが来るはずなんかありゃしません」
嫌厭をあらわした眼付を田沢の顔の上へかえした。宏子がここで本を買うことの出来るような金をやってない。瑛子はそのことを、瞬間に母親らしい押しのつよさで頭へ閃めかせながら、
「何故そんなことおっしゃるの」
やっぱり厭そうに云った。
「何故ってこともないが……」
瑛子はテーブルの下で焦立ったように足袋の爪先をうごかしながらきつい調子で云った。
「順二郎の本を見ていただきにあなたと来ているのに、どこがわるいんです」
それきり二人とも黙ってしまった。或る意味では共通な嫌悪をもって感じている者の名が出たために、黙っている間も二人の心持は一層見えない力で近づけられるようでもある。田沢がやや暫くして訊いた。
「きょうは、おかえりですか」
「さあ……」
「これっきりでかえるのはつまらない」
タバコをもたない方の片腕をまわして自分の胸をかかえ込むような恰好をしながら田沢が圧しつけた声で云った。
「どっかへ行きましょう」
瑛子の頬に血の色が微かにのぼった。
「…………」
「ね」
「…………」
四辺の静けさ。乾いた書籍の紙や印刷インクからしみ出して空気を満している軽い刺戟性の匂い。質のよい石炭に焔が燃えついたような燦きが瑛子の目の裡に現れた。その目を彼女はがんこに田沢の顔からそらしている。豊かな頬から顎へかけて、激しい内心の動揺が、憤ったような表情を見せた。それは濃い、激しい、香の高いはりつめられた期待とそれへの抵抗である。瑛子は、いきなり身じろぎをして、特徴のあるせきばらいをすると、真面目な、やはりおこっているようなところのある声で、
「御勘定を――」
と云った。
再び人のかたまっている雑誌の台の横をぬけて階段にさしかかった。瑛子は一段一段と自分の重さにひかれるように降りてゆく。その肩に自分の肩をすり合わせてゆっくり、ゆっくり降りながら、正面を向いたなり田沢が、
「ああ、このまんまどっかへ行っちまいたい」
と囁いた。
「――行きましょう」
「…………」
「行きましょう」
「…………」
階下の通路を真直に抜けて、彼等は店の外へ出て行った。
四
いまどき余り見かけない束髪にその女客が髪をあげていたばかりでなく、何か印象にのこる余韻をひいていた二人連が去ってから、みほ子は暫くガラス・ケースの奥に立ってぼんやりと外の方を眺めていた。
向いあって売場のある下着類のところから、同じように水色メリンスの事務服をきた時江が、その様子を見てこっちへやって来た。
「ね、幸子さんのところ、どうしましょうね」
「え?」
みほ子は、うっかりしていたように眉をあげて相手を見、ききかえそうとしたが、
「ああ、本当にね」
やや浅黒い面立ちに、はっきりした表情をとり戻した。
「あなたさえよかったら、いっそ今日よっちゃいましょうか」
「ねえ。――わざわざそれだけに出て来るってのも億劫だし……じゃあ私友ちゃんにもそう云うわ」
「すみません」
一緒に築地の芝居へ一二度行ったりしたことのある同僚の幸子が、体をわるくして一ヵ月余り休んでいた。肺がわるいらしい。やめるかもしれない。そういう噂が出ていて、みほ子へ来た手紙の様子でも、それがまるで根のないこととも思えなかった。同じ店の、ふだんどっちかというと仲よし組の三人で見舞いに行こう。そう云い出したのはもう四五日前のことなのであった。
五時のベルが鳴って、あっちこっちでケースへ覆いがかけられはじめた。まだ僅か残っている客への礼儀から、ばたばたはしないが、それでも店員たちのそら鳴ったぞ、という気のせき立ちは店内の空気が上下とりかわって急に流れ出したような遽しさを漂わせはじめるのであった。
友子が、
「きょうよるんですって?」
と、通路側へ立ってカバーをひろげているみほ子に云った。
「あなたどう? お家の方かまいません」
「ええ。かまやしないわ」
店の入口がしまると、洗面所のところでかえりの身じまいをしながら、一番年下の友子が、
「あら、どうしましょう、私幸子さんの番地もって来なかったわ」
と鼻声になった。
「私知ってるから大丈夫よ。金杉一丁目の十九かでしょう?」
「わかるわよ」
水で洗った顔へコンパクトを動かしながら時江が、軽く亢奮しているような声の調子で云った。勤めのかえりにどこかへよることが珍しかったし、まして同僚の家へ行くなどということはこれまでなかったことである。三人は、いくらかいつもより気をつかってきちんと帯をしめた身じまいよい胸元へ、きつく弁当箱をつつんだ風呂敷包みをかかえて、日和の歯音を立てながら通用口から外へ出た。
電車は例の如く混みあっていて、三人並んで吊皮につかまると、かけている男たちの膝をよけて立っているのがやっとである。
「ほんのすこしのものでいいから何か買ってってあげたいわね」
たかく吊皮につかまっている方の袖口を、風呂
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング