然現象と人間の実践との混同などに、極めて微妙な未発展の部分がふくまれていることを告げているのである。
 重吉は、大木初之輔が、その月に或る文学雑誌に発表した論文をとりあげた。重吉の態度には、別に自分というものを一同の前に押し出そうとしていない青年の自信あるさっぱりした淡白さと同時に、論議そのものは飽くまでつきつめて行こうとする骨組みがあるのであった。
 大木の論文を読んでいない者があったりして、重吉の提出した問題は、その席では二三補足的な意見を出されただけで終った。
 先ず今中が立って、鳥打帽をかぶり、茶毛のジャケツの襟を立てて出て行った。編輯関係のものだけのこり、
「行くか?」
「ああ」
 書類鞄をかかえた山原を加えて重吉、光井が一団となって再び狭っくるしい裏小路から往来へ出た。
 夕方は雨になりそうであった空が夜にいってから冴えて、昼間の烈風ですっかり埃をどこかへ吹き払われてしまっている大学前の大通りは、いつもより一層広くからんとしたように見とおしが利いた。星が出ている。
 暫く賑やかな方へ歩いて行ったとき、山原が、
「おい佐藤、少しひどいぞ」
と云った。
「現在の自分のおくれている部分の水準へ引下げて今日の歴史の到達点を云々するのは誤りである、なんて、正々堂々と満座の中でやられちゃ浮ばれない。――俺の岩見重太郎だって一つの戦術だよ。或は佐藤重吉に花をもたせるつもりだったかもしれないじゃないか」
 重吉はかぶっているソフトの鍔《つば》を表情のある手頸の動かしかたで黙ってぐっと引下げたが、
「しかしああいう場所で云われる言葉は、それとしてやっぱり客観的な影響をもつものだからね」
と云った声の調子には、おだやかで説得的なあったかささえこもっていた。
「それに問題が問題だろう? 相当大事なんだと思うんだ。なかなか一朝一夕には解決しないことなんだろうなあ。或る意味で人間感情の本質的な進歩にかかってるものね」
 山原は、
「ふむ」
と云ったが、話頭を一転して、
「どうも俺はあの連中は苦手だ」
 大股に歩きながら、ぺっと地面に唾をした。
「結局中途はんぱな実行力のない奴等のすてどころということじゃないのか」
 ずっと黙って重吉と山原の間にはさまって歩いていた光井が、
「そういうのは間違いだ」
 ぽつんと、単刀直入に云ってあとはまた黙ってしまった。ひとくちに云えない感情がさっきから光井の胸にだんだんひろがり高まっているのであった。それは重吉に対する心持であった。今夜も光井がよくみていると、重吉が泳ぎに例えれば二肩ばかりまわりを抜いたと思われたところがあった。重吉は自分でそれを意識しているのかいないのか、何とも云えない自然の力のこもり工合で、これ迄も折々光井にそういう心を魅するような瞬間を見せた。光井はそういう重吉から昨今自分の眼を引はなせない心持になっていて、二人で酒をのみならったりした高校時代からの友情が将に非常な信頼へ躍りこんで行きそうな予感をもっているのであった。そして、この予感は個人的な道をとおってはいるが、あついものに触れそうで、光井に激しい予期と恐怖に似た感情を味わせているものなのである。
 重吉はまた別な感想をもって黙って歩いていたのであったが、
「ちょっとくって行こうか」
 子供らしいように笑いのある眼差しで、支那ソバ屋の屋台の前へとまった。
 三人はいかにも壮健な食慾でたべはじめた。
「ふ、すっかり曇っちゃった」
 眼鏡をはずしてハンケチでそれを拭きながら、山原がすこし充血した近眼の目をよせるようにして、
「おい、あしたどうする」
 二人のどっちへともつかず云った。
「俺は例の伯父貴にわたりがついたから行って見るんだ。先ずもって枢機に参画する必要があるからね」
 山原には商工会議所の相当なところにいる伯父があって、将来の就職のこともかねて遠大な計画ありげに日頃から話していた。
 光井がそれとは別に、
「ずっとうちかい?」
と重吉にきいた。
「夕方まで用事で出かけるが、あとはいるよ」
 返事しながら、重吉はさっきポケットへ入れたばかりの銀貨の中から小銭をつまみ出して、赤や緑で花みたいな模様をかいた粗末な支那丼のわきへ置いた。

        二

 ガード下へかかると、電車の音も自動車の警笛の響も急にガーッと通行人の体を四方から押しつつむようにやかましくなる。黙ってそこを通抜けて真直歩いている宏子の生真面目な顔の上には、折々、何処へ行くんだろうという疑問の色が目にとまらないくらいに現れては消えた。宏子は、その疑問を一種の謹みのような心持から口に出さず、はる子が来るとおり黙ってわきを歩いているのである。
 寄宿を別々に出て、省線の或る乗換駅のホームで落ち合うまで、はる子がこまかい説明を宏子に与えなかったのは先輩らしく規律を守った当然な気持からであった。だんだん来るうちに、その気持にあやが加って、はる子は、歩きながら思わずくすくす笑い出した。
「なによ!」
 慍《おこ》ったような調子で自分は笑いもせず宏子ははる子をとがめるが、はる子が何を笑っているのかはよくわかった。はる子とこういう工合に連立って出て来たのは宏子にとって全く初めての経験であった。一生懸命さが、ベレーをかぶった丸い顔にかくすことが出来ずに輝やいているのである。
 公園の広い門から入って、図書館のわきへ来かかると、右手の小道からサンデー毎日を片手にもった青年が出て来た。平らな、力のこもったゆっくりした歩調で来かかって、行きすぎるのかと思ったら、
「やア」
 余り高くない声でそう云って、ちょっとソフトのふちへ手をかけた。
「しばらく」
 はる子も今は真面目な顔つきで挨拶した。そのまま、砂利の敷かれた小道へ曲って暫く行って、はる子が、
「これ――宏子さん」
と紹介した。
「太田さんての」
 こういう人に会うことを予期していなかった宏子は、黙ってはる子のそばを歩きながら軽く頭を下げた。
「すこしゆっくりしてもいいのかい」
「いいんです」
 小道の幅が三人歩くに窮屈であったばかりの理由でなく、二人は宏子より少し先を行って、事務的に何か話しつつ歩いた。
 暖い色の藁で霜よけをされた芭蕉があるきりのまだ淋しい花壇に添うた陽だまりのベンチの一つで、中年の男がインバネスの袖を肩へはね上げてかがみこみ、別に灰がたまっているのでもないのに、頻りと機械的に人さし指をうごかして巻煙草の灰をはたいている。わきに、頸のまわりに薄水色の絹をまきつけて、大きな七三に結った女が、両手を懐手にしていた。女はその前を通りがかった三人を無遠慮に眺めながら、音を立てて齲歯《むしば》をすった。おくれ咲きの白梅の花が見える東屋のところで彼等は腰をおろした。小さい広場がゆるやかな傾斜のむこうにあって、こっちからは遠い方の端れで、三四人、印バンテンがきのうの風で吹倒された樹を起す作業をやっている。
 太田と紹介された青年は、帽子をぬいで、はる子に親しげな飾りない調子で、
「きょうは暖いね」
と云い、そのままのごく自然な口調で、
「この間の報告はなかなかよく書けていたね」
 宏子に向って云った。
「ああいうもの、はじめて書いたんですか」
 教師の三田が辞職させられたについて学校が動揺したが、結局ずるずるに納った。そのいきさつを宏子は短く書いた。それが「戦旗」の隅にのったのであった。宏子は太田にそう云われて、嬉しそうな顔になってはる子を見、
「随分直したわね」
と笑った。はる子が、いかにも姉ぶった調子で、
「だって、この人ったら小説か論文でも書くみたいにこってるんだもの」
 太田と呼ばれている重吉は笑い出して、
「小説にかけるなら小説だっていいんだよ」
と云った。重吉は、はる子が先輩ぶっているところに興味を感じて眺めた。また宏子が、対手の経験の蓄積が自分よりは豊富なことを認めていて、素直で快活な態度であるのも快く感じられた。外套も服も一様に紺ぽい毛織で、カラーだけ真白な装をしている宏子の全体には、これから咲こうとしている何かの樹の花のような潜んだひたむきな調子があるのも感じられるのであった。
 はる子はさっきから自然木の腰かけから手をのばして、霜で赤く色づいている躑躅《つつじ》の堅い葉をむしっていたが、やがて居ずまいを直して、
「私、一つ疑問があるんだけど……」
 そう云って重吉を凝っと見つめた。
「私、今のままの生活をつづけていて正しいんでしょうか……」
 宏子の顔に緊張した注意があらわれた。三田のことについての紛擾がああいう不活溌な結果になって終ってから、はる子は、学生生活に疑いをもちはじめた。そのことは宏子も打ちあけられている。
「私こないだの経験からいろいろ考えているんです――組合へついたりしちゃいけないんでしょうか」
 太田というひとは何と答えるであろうか。宏子ははる子自身にまけない期待でまちもうけたが、重吉は何とも云わない。口を前よりもかたく結び、濃い眉をうごかして一種の身じろぎをしたばかりである。
「どうせ学校だって、おしまいまでいられるかどうか知れやしないんだし……」
 熱心な、訴えをこめた声ではる子は、
「私、何かもっと基本的に成長したいんです」
と早口に云った。すこし赤い顔にさえなっている。
 重吉には、はる子の置かれている心の状態がよくわかった。こういう苦しい訴えが、嘗て一遍も重吉の胸に湧いたことがなかったと云えようか。良心的な学生のいくつかの心をとらえたことがないと云えようか。当時思想的な波はひろく深く及ぼしていたが、例えば前衛の活動などについては、忍術武勇伝式の想像をもって描かれていた時期をまだ余りすぎていなかった。積極的な学生は謂わばめいめいが一生懸命になってたぐりよせた一筋二筋の糸につかまって進んで行っているのであったし、学生に対する全体としての方策については、それ自体が一足ずつ爪先さぐりに方向を見出しつつあった。一方では、どちらかというと素朴な形で、労働者でなければ人間でないように云われる風潮もあり、多くの若ものたちは未練なく学校をすてて、他の活動へ入って行っているのであった。
 重吉は複雑な歴史の波を重厚に凌ごうとするように幅のある肩をうごかし、
「君の心持はわかると思うよ」
 明るい外光の中で睫毛のこまやかさのはっきりわかる眼を、真直はる子の視線に向けて云った。
「その考えもわるくはないかも知れないが、もうすこし待って見ないか? いろいろ考えられているからね。学内もたしか変るよ」
「そうかしら」
「ここ一二ヵ月じゃないか」
「そう?」
 傍で黙って聴いている宏子には、勿論、何がどうかわろうとしているのか推察も出来ないことであった。はる子も、それ以上説明を求めようともしない。重吉が自然木の腰かけから立ち上ってのびをしながら、そこに並んでかけている宏子とはる子のどっちへともつかず、
「まあ悠々とやるんだね」
 そう云って、信じるところありげな眼の中に輝く笑を浮べた。
「一生のことだろう? いそがずといいさ。必要なら、どういう仕事でもやるという確信で、今の場所で最善をつくしていればいい。そうだろう?」
 云いながら、重吉は自分の胸に迫って来る感動を覚えた。彼自身への未来は果してどのように展開されて来るであろう。彼が、高校時代から自身の才能についても活動についても、期するところあって自重している。その精華はいつどのような形で、新しい歴史の裡に活きるであろうか。それは彼の前にもまだ示されていない。
「すこし歩こうか」
 三人は、それぞれの感動でしばらく黙って、かたい芽のふくらみ出した樹の間から、青空の見える小道を歩いて行った。ぽつぽつ話し出して、重吉が、
「この頃、みんなどんな本よんでいるかい」
ときいた。
「多喜二のものやなんかよむかい?」
「読んでいるけど、感想きくと、大抵素敵だと思うって云う程度なんです」
「『母』なんかもよますといいな。シャポアロフの自伝の中に、労働者がゴーリキイのあの小説をどんな心持で愛読したかということが大変よくかかれているよ」
 インテリゲ
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