けど――」
「そりゃどうも相すみません」
 父親は、
「おい、おい」
 鈍く電燈に光っている下駄棚の間に見える茶の間に向って声をかけた。
「おい、幸子にそう云って……」
 小さい男の子とそれから三つ四つ年かさの幸子の弟妹らしい女の児とが首を重ねて店先をのぞいた。
「お、姉さんにお客様だって云いな」
 父親は、
「どうも狭っくるしいところで……さ、お入んなすって……」
 店の土間には二つ腰かけがあった。
「さ、おかけなすって。――おい、どうした」
 店の奥は一間しかないらしく、そこから母親らしい圧し殺した声で、
「何だろう! ちょっとこれをひっかけてさ、何もお前……」
 しきりに何か云っているのが聞えた。みほ子は、気の毒そうな顔をかくすことが出来なくなって、
「あの、ほんとにちょっとおよりしたんですから……」
と、舌がひっかかるような軟い調子で云った。
「およっていらしたんなら、もう結構ですから……」
「いいえ、なに……おい、おい」
 こちらへの云いわけの心持で母親はすこし声高に、
「ほんとにまあ……さ、どうしたって云うんだろう」
 ついそこの物蔭に立っている幸子は泣いているらしい様子であった。体が箪笥の環にぶつかった音がして、
「いや! いやったら!」
 堰を切ったように幸子の甲高な声が涙に溺れて店まで響いた。
「こんな家みられて……」
 ひどく、しゃくり上げる声がして、もっと何か云いながら裏口から我武者羅《がむしゃら》に駈け出す物音である。
「なアにをしてる……」
 父親が立って行って、今度は一緒に、
「まあ、折角お出で下すったのに、あの子ったら……」
 取乱した顔つきで髪をかきながら母親まで出て来た。友子はあっけにとられた顔をしているし、みほ子は苦っぽい涙が鼻の髄を刺すようで居堪まらない気持になった。
 三人は果物包を下駄の台が括《くく》ってころがされていた傍へこっそり置いて、いくつもお辞儀をしてそこを出た。
 やっと晴やかに街燈の燦いている大通りへ出て時江が、
「どうしたんだろう、幸子さんたら……」
と肝を消したように呟いた。
「何か勘ちがいしたのかしら……」
「だって――まさか。病気のせいでヒステリーんなったんでしょうか。何て、こわかったんでしょう」
 みほ子は黙ってつれたちの喋るのをききながら、内輪の足元が一層のろくなったように停留場へ向って歩いた。

        五

 みほ子の住居は、そこから山下まで戻ってまた電車をのりかえなければならないところにあった。電車の数がすくないので、此方の混み合いようはひどかった。しかもカーブつづきで池の畔をまわってゆくので、乗客がグーと一方へ重心をかけて揺れかかって来ると、出入口の金棒のところにおっついているみほ子の胸元が痛いほど圧しつけられる。みほ子の隣りに、これも金棒によって四十がらみの勤め人風の男がいた。金棒の上へ書類鞄をもちあげている。その鞄から弁当の汁の匂いが滲み出てみほ子の顔の前にこもっている。乱暴に電車がカーブを切る度に一斉にこっちに揺られ、またあっちへ揺り返されしながら満載されて帰途についているこの人達は、それぞれどんな家へ戻って行こうとしているのだろう。みほ子はよく唱歌で云う「楽しき家路」という文句が、悲しく皮肉に思い出された。
 夏なんか、夜の濃い大きい星空の下に、小さな家々が虫籠へ灯でもともしたように、裏まで見透しにつづいているのを見ると、みほ子はそこにある人間の生活というものが考えられ、一種異様な侘しさを感じるのが常であった。
 幸子があんな風に泣いて飛び出したりしたのは、どうかしているけれども、それなら店の誰が互に家を知らせあって行ききしているだろう。自分の家を何か人前に出したくないような心持をもっていないものがいるだろうか。みほ子は自分にも在るその卑下した心持が苦しくくちおしくもあって、腋の下が汗ばんだ。
 車庫前で降りて、だらだら坂を左へのぼった。かざり屋の裏の生垣つづきの木戸をあけて、
「ただいま」
 上り端の三畳の電燈を背のびして捩りながら、
「まあ、おかえったかい、おそかったこと!」
 祖母のおむらが、土間に入ったみほ子の方をすかして見た。
「どうおしだろうと、気が気じゃなかった」
「お友達のお見舞にまわったもんだから……」
 みほ子は、六畳の長火鉢の前に横坐りになるとすぐ足袋をぬいだ。それから帯をといて、思わず、
「ああア」
 拳を握ってトントンと、銘仙の着物の上からふくらはぎを叩いた。店の中では殆ど立ちづめであったし、その時間の電車で腰かけることなど思いもよらないことである。
「おなかがすいてじゃろう。みほ子さんのお好きな芝海老を煮といたよ」
「そうお。すみません」
 おむらは、馴れない者はびっくりするような年に不似合な若やぎで、茶色の足
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