袋をはいた足をまめに動かして、みほ子の脱いだものを衣紋竿にかけ、帯を片よせ、チャブ台を長火鉢の横へ立てた。
「ああ美味い」
「ちょっとたべられるだろう、これで十銭よ」
 六畳の電燈を鴨居のところまで引っぱって来て、みほ子が洗いものをした。
「さあ、お風呂へいっておいでよ」
 みほ子は、風呂敷包みから出した雑誌をめくりながら、
「おばあちゃん、いっといでよ」
と云った。
「私、きょうやめる。何だかもう面倒くさくなっちゃったもん」
「若い女がそんな――みほちゃんはきめがこまかいから、お風呂にさえよう入っとりゃ、いつも本当にきれいなのに。髪だってそんなに見事なんだし……」
 みほ子がとりあわないので、おむらは細々と糠袋までとり揃えて、羽織をかえて湯へ行った。みほ子の父親が大正七八年の暴落で大失敗をし、一家離散の形になって、妻の故郷の田舎町の保険会社へつとめて行くまで、おむらは亡夫の昔の同僚であって現在では実業界に隆々としている男の家へ、紋付の羽織で盆暮には出入りするのを楽しみと誇りにしていた。高等小学校を優等で出て、縹緻《きりょう》もよいみほ子、勤め先での評判もいいみほ子を眺めるおむらの眼には、その頃よく新聞などにさわがれたデパートの美人売子がどこそこの次男に見込まれたというような、そんな場合さえ描かれていないことはないのであった。
 一人になると、みほ子は足をなげ出し、箪笥へ頭をもたせかけ、上瞼へそれが特徴の鋭さであるスーとした表情をうかべながら、考えこんだ。
 みほ子が店で模範店員であるのも、それは彼女が店を無上のところと思い、境遇に甘んじて、その中でいい子になっての結果ではなかった。みほ子の心持の中には、絶えず、生活とはこういうものなのだろうか。これっきりなものだろうか。これっきりでいいのだろうかという本能的な疑問が生きていた。彼女はこの答えの見つからない、しかも心にとりついて離れることのない疑問におされて、謂わば答えを求めて、自分にあてがわれた仕事には本気で当って行った。店では、同じ仕事でも女学校出が一円十銭、小学校出は八十銭というきめであった。こちらの働きかたがどうであっても、それは動かないものだろうか。その気持もあった。
 それが目的で模範店員になったのでもないみほ子は、やっぱり毎日が詰らなくて、たまの休日に一日布団にもぐりこんで、おむらに口一つきかず本ばっかり読んでいるようなことがあった。
 六畳の縁側は雨戸がしまって、父親がのこして行った蘭の鉢が二つばかり置いてある。表のかざり屋の職人が、何かの金属を軽く早く叩いている澄んだ響がそれより遠方のラジオの三味線の音の間に聞えて来た。按摩の笛が坂の方を流してゆき、朝は騒々しい界隈であるが、宵は早く、身につまされる裏町の夜の静けさがあるのである。
 みほ子の心に、きょうの最後の客であった庇髪の女の顔が浮んだ。そして、いろんな想像や連想から、「大阪の宿」という小説のことを思い出した。その小説を書いた人の親の家が有名で、店の顧客だというようなことから誰かが随分古くかかれているその本を持って来た。その小説の作者は、三田という人物の感想として、令嬢といわれる階級の若い女たちが、すっかり親に庇護されて、自分自身には何の力もないくせに、いやにつんとすましているのがいやだ、なかみのない気位がいやだ、と云うことを力説していた。それかと云って先祖代々贅沢をしあきて来たような顔をしている芸者も、どこが粋なのか、すっきりしているのか分らないと、歯ぎれのよい文章でかかれていた。主人公の三田という男が、勤めの往復でいつも逢う一人の型にはまっていない慎ましい職業婦人に対して深い好意を感じるにつれて、それらのことが描かれているのであった。
 みほ子は、店の性質上、貴夫人、令嬢と云われる部類の人々を多く見ている。それだけに、云われていることがぴったり来た。一層社会の広い範囲が自分たちの生活を正当に評価しはじめたような微かな頼もしさがあった。
 その後、その小説の作家が結婚して、相手の娘さんというのは、嫁入仕度に帯だけ何十本とか持って来たそうだというようなことが噂にのぼった。何でも或る俄雨のとき、その令嬢が頭から濡れながら、格別身装をいとおうともせず歩いてゆくのを見て、その様子に心をひかれたということであった。
 男としてそういう女を面白く思ったという点もみほ子にはわかる心持がした。が、それにしろ、帯だけ何十本も持って来るようなひとにとって、車にものらず往来する程度の着物ぐらいが、何ほどのことであろう。びしょ濡れになってみることも、時にとっての若々しい一興であったろう。小さな見栄や気位なんかに煩わされるに及ばない程巨大に庇護されている娘の鷹揚さにひかれて妻にする心、つつましやかな働く娘にひかれてゆく心。どちら
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