が、その様子を見てこっちへやって来た。
「ね、幸子さんのところ、どうしましょうね」
「え?」
みほ子は、うっかりしていたように眉をあげて相手を見、ききかえそうとしたが、
「ああ、本当にね」
やや浅黒い面立ちに、はっきりした表情をとり戻した。
「あなたさえよかったら、いっそ今日よっちゃいましょうか」
「ねえ。――わざわざそれだけに出て来るってのも億劫だし……じゃあ私友ちゃんにもそう云うわ」
「すみません」
一緒に築地の芝居へ一二度行ったりしたことのある同僚の幸子が、体をわるくして一ヵ月余り休んでいた。肺がわるいらしい。やめるかもしれない。そういう噂が出ていて、みほ子へ来た手紙の様子でも、それがまるで根のないこととも思えなかった。同じ店の、ふだんどっちかというと仲よし組の三人で見舞いに行こう。そう云い出したのはもう四五日前のことなのであった。
五時のベルが鳴って、あっちこっちでケースへ覆いがかけられはじめた。まだ僅か残っている客への礼儀から、ばたばたはしないが、それでも店員たちのそら鳴ったぞ、という気のせき立ちは店内の空気が上下とりかわって急に流れ出したような遽しさを漂わせはじめるのであった。
友子が、
「きょうよるんですって?」
と、通路側へ立ってカバーをひろげているみほ子に云った。
「あなたどう? お家の方かまいません」
「ええ。かまやしないわ」
店の入口がしまると、洗面所のところでかえりの身じまいをしながら、一番年下の友子が、
「あら、どうしましょう、私幸子さんの番地もって来なかったわ」
と鼻声になった。
「私知ってるから大丈夫よ。金杉一丁目の十九かでしょう?」
「わかるわよ」
水で洗った顔へコンパクトを動かしながら時江が、軽く亢奮しているような声の調子で云った。勤めのかえりにどこかへよることが珍しかったし、まして同僚の家へ行くなどということはこれまでなかったことである。三人は、いくらかいつもより気をつかってきちんと帯をしめた身じまいよい胸元へ、きつく弁当箱をつつんだ風呂敷包みをかかえて、日和の歯音を立てながら通用口から外へ出た。
電車は例の如く混みあっていて、三人並んで吊皮につかまると、かけている男たちの膝をよけて立っているのがやっとである。
「ほんのすこしのものでいいから何か買ってってあげたいわね」
たかく吊皮につかまっている方の袖口を、風呂敷包みを持っている方の手でおさえて隣りに立っている時江にみほ子が云った。
「水菓子か何か――きっとよろこぶわ」
それっきり話さず、三人は金杉で降りた。停留場のすぐわきの果物屋で、ネーブルとリンゴを買った。出る時は、簡単にわかるわよ、と云っていた時江も二つ三つ角を曲って思うところへ出ないと、もうこの辺の地理には友子同然見当がつかず、みほ子が心持内輪な勤勉な歩きつきで、酒屋の店へ入って行って丁寧に訊いた。もとより勝気でもあるけれども、みほ子の人柄には善良さと少女時代からの勤労から骨惜しみをしない気質とが自然にとけあっていて、出しゃばるというのではなくて、何かにつけ、まわりが困って見ると、みほ子がたよられているという風なのであった。
一二間先へ行って、とある写真屋の横丁をのぞいていたみほ子が、思わず高く呼びたいのを抑えた声で、
「ちょっと、ちょっと」
おくれている連中を招いた。
「この横だわ、ほら、ね」
写真屋の横羽目に、エナメルの番地札が打ちつけられてある。八百屋、電気器具屋、美髪所、どれも表通りへは張りかねる苦しい店をこの横丁に開いているという街筋であった。ビリアードの赤と白との球のついた広告が出ている先に、埃でくもったような下駄屋のショウ・ウィンドウが目に入った。
「あすこらしいわね」
「そうねえ」
三人はひとりでに歩調をゆるめて、そっちを見ながら行ったが、みほ子は何か苦しいような表情になって、袂から出したハンケチで汗が出ているのでもない小鼻のまわりを拭いた。
十五銭、三十銭という下駄の並んだ台が二つ並んでいる店のうす暗い電燈のポツリとついた奥のところで、父親らしい中年寄がすげ替えの鼻緒の金を打っている。
「どうしましょう」
気おくれがしたように小さい声で友子が云った。
「折角来たんですもの――上らなけりゃいいわ」
時江が、店へ入って行って、
「御免下さい」
と云った。
「いらっしゃい」
商売の客に向って永年云い馴れた小商人の応待で答えた父親は、時江が、
「あのう、幸子さんいらっしゃいましょうか」
と云うと、びっくりしたらしく、
「幸子はおりますが……」
膝を組直したらしい気配で、
「こりゃあどうも――」
飾窓のわきへ半分身をよせて佇んでいたみほ子と友子との方をすかして見るようにした。みほ子は挨拶をした。
「あの、ちょっとお見舞にあがったんです
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