ひとが、若さを衣服の赤勝ちな色でだけ示している習慣をよく気の毒にも粗野にも思って眺める。そういう色の溢れた中から、パッと鮮やかな若い眼や唇がとび込んで来ることは非常に稀である。燃えるような紅をもっとしまった効果で、小さく強く、その紅が青春のおどろきとして効果をあげるように使われたら、どんなに美しいだろう。洋装では灰色を瀟洒に着こなしている若い女性は、和服だとやっぱり平凡な赤勝ちに身をゆだねて、自身の近代の顔を殺しているのが今日である。
 どうせ日本服があるなら、羽織を何時でも着て、折角の着物の趣を削ぐ風俗も少し改まればいいと思う。冬でも、おしゃれをしたときは、羽織なしがよい。よっぽど年をとったひとでない限り、たとえ私のようにまん丸であろうとも羽織なしの装はわるくないものだと感じられる。そういう点で、ふだん着とはちがう感情のアクセントがあってもわるくないものだろう。
 日本服だと、着こなしが云われて、その人としてのスタイルというところまでなかなか表現されていないことも、私たちに女の生活の一般化された平面さを考えさせる。年頃の娘さん、令嬢、奥さん、そういう概括はあるけれども、どんな娘さんと
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング