しまった。細かい絣だから余りみっともなくない。
そういう羽織を着て、体の半分をくるむような大前掛をかけて、帯は御免蒙って兵児帯である。迚《とて》もしゃんとした帯をしめて仕事をすることは出来ない。
急にお客様があったりして、私はいつもそのまま出るのだけれど、私のような働きの性質だと、どうしても働き着即ちふだん着しか仕方がない。夏は袂を元禄袖にしているのもある。願くば、このくるみぶち付羽織だの着物だのに、せめて心持よい色彩あれ、と思っている。
もう一つ私は妙なものを使っている。それは私のせめてものくつろぎ用、寒さしのぎ用だが、部屋着から思いついて、どてら代りに綿入元禄袖のついたけ着物のように縫ったものに、横で結ぶ紐をつけ、寝間着の上から羽織ったり、夜はふだん着の上にひっかけたりして、便利している。
洋服暮しのとき、部屋着として少しさっぱりした縞や小紋の着物地で拵え、随分重宝してからずっともう幾冬もそれを離さない。日本の部屋で、洋装ぐらしをする女のひとは、案外そんな部屋着が役に立ち、又安楽で、しかも一寸そのまま人前に出ても大して失礼にも当らず、都合いいのではないかしら。縞や模様の気くばり次第で、全くの部屋着の感じにもなるし、落付いて地味な上っぱりともなるのだから。この間、私の伝授で或る若いひとが、近頃よくある紫のしぼりでそれをこしらえて着ているのを見た。とも切れの幅ひろく短い紐をちょんと横に結んだところもなかなか愛らしくて、びらしゃらもしないのである。
日本の着物の感覚で、色彩的ということがもっとこまやかな味いで感じられるようにならなければうそと思う。
近頃のけばけばしさ、というと普通にはすぐ懐古風に配色だの縞だのが思い浮べられているけれども、そういう逆もどりも実際には不可能だと思う。
しぶい色、縞は、昔の日本の室内で近い目の前で見られるにふさわしいのだが、今日の東京の建築物では室内のスケールも変って来ていてその質量感にふさわしいようにという関心が、様々な色のこみすぎた盛り合わせとして現れて、却って色彩的でなくなってしまっている。二色或は三色きりの調和にある実にすがすがしい色彩感。単純な統一の一点に利いている小物の濃いゆたかな色彩、というような整理は、案外されていない。若い人は、雑多な色の間に自分の皮膚の若々しささえもみくしゃにされている。
日本の若い女の
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