働く時間の衣類の形もくつろぐ時、外出の時の衣服の形も同じで、動きを語る線の上でのくっきりとした変化というものは持たなかった。平常着を小ざっぱりと趣味をもって、ということは心がけのよい女性たちの念願だと思うが、日本のこれ迄の暮しの感情では、女のふだん着は働き着と同じ性能におかれていて、僅に夕飯後ふだん着の上に羽織られた袢纏が、日本女性のつつましい休息の姿を語っていた。
 其故、この頃いろいろ衣服の改善が云われても、いつも「気が利いていて働きよい平常着」という観念の土台で袂がちぢめられたり、裾が袋にされたりしている。はっきりと働く時間の装はこれ、大働きの終ってからのふだん着はこれと、区別された生活感情で扱われていない。
 家庭でも働き着とふだん着との区分が明瞭につけられると、却ってどちらもその性能をよく活かした形で徹底されるのだろう。私たちの女の生活に向う態度そのものに、そういう区分を生れさせる弾力がなくてはならないのだと思う。昔から日本の婦人の服装の改良というと、明治時代から改良服の系統を脱し得ないのは、いつも働き着とふだん着とが一緒にされて念頭にもち越されていたからなのだと思われる。
 近頃一方に制服ばやりがあると共に、他方では極端な服装の単一化が考えられているけれども、先頃ナチスのヒットラー・ユーゲントが来たとき、割にその近くで接触していた人の話では、ユーゲントたちは制服は一通りだけれども、服装としては六七通りはそれぞれの必要にしたがって持っていた。ユーゲントの制服だけ見て、それだけ真似て、一組の装で万事すませようとするのだったら可笑しい、ということだった。
 衣類の本当の合理化は、その人々の働きの種類によって、休安の目的によって形も地質も考えられるのが当然である。

 人の働きもいろいろで、私の着物は他のものを書く人と同様に独特の痛みかたをする。日本服だから袖口が痛むのはおきまりだけれど、絶えず机にすれるものだから袖口の外側からその下にかけてのところだの、羽織の襟の机に当るところだのが知らないうちに忽ち切れてしまう。それから、いしきが抜ける。これは私の重さもあるけれど、細いひとでも、一日の大部分腰をかけて、気付かない体の動きをつづけているひとは皆ここを切る。
 羽織の袖口が余りバラバラおそろしくなるので、今着ているのは、外側から同じような布地でくるみぶちをとって
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