討論に即しての感想
――新日本文学会第四回大会最終日に――
宮本百合子

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 私自身体が悪かったり病人があったりで、大会の準備に出席できませんでした。第二回民主主義文化会議に出席できなかったしこの大会の二日間も欠席しております。したがって系統だった報告はできません。けれども、こんにち私たち日本の人民にとって、世界ファシズムに反対して平和をまもり日本の人民としての生活と文化の民主的な独立を打ちたててゆく努力が、どんなに切実な課題であるかということについて、今日午後行われた討論にふれ、只今中野重治の行った報告にもそって一言のべたいと思います。
 第一次大戦の後には、誰にでも知られているとおりヨーロッパには新しい芸術の流派として、ダダイズム、キュビズムなどが広汎な心理分析主義の流行の上に発生しました。第一次大戦によって中流階級が生活の安定を破られ、これまでの社会秩序と価値評価のよりどころを崩壊させられたことから、こなごなになった小市民的観念と感覚のきらめき、模索。二十世紀のブルジョア文学の最後の段階としてこれらの現象が生れました。同時にプロレタリア化した小市民の前進的な部分は広い幅でプロレタリア解放運動とプロレタリア芸術の動きに合流しました。そして、旧い王権は世界各国でその数をへらしました。
 第二次大戦後の世界は、一層深い傷と破滅を経験して、中産階級の没落はもとより民族そのものの自立性さえもファシズムの暴力に対する抵抗の過程でおびやかされました。しかも日本・イタリー・ドイツのように三国連盟して、東洋と西洋の平和を攪乱したファシズム権力に引まわされた国々の人民生活の惨状は改めていうまでもありません。第二次大戦はファシズムの非人間性と狂暴な破壊性についておそろしい教訓を与えました。近代戦争の無制限な戦線拡大は、戦争の非人道性をあらゆる人におもい知らせました。戦争を嫌悪する心、平和な状態で平和な人民生活を安定させたいという願いは、第二次大戦でどっさりの血を流した世界にあまねく感じられている現在の要望です。
 第二次大戦が殆ど地球全面を破滅におとし入れたという事実は、ヨーロッパにおいていわゆる戦後文学が第一次大戦後のようにさまざまな流派の名をもって擡頭してきていないことを見ても分ります。フランスのブルジョア文学は、その老齢においてさえも、民族の文化の伝統を防衛するために努力をつくしました。ヨーロッパそれぞれの国における進歩的な芸術家たちは、戦争中ファシズムの暴力から民族解放と民主主義を救うために闘ったし、戦後は新しい戦争挑発と闘い、自分の国の中の旧勢力と闘い、文学の行動においてはっきりと世界の民主主義とそれによってだけ確保される平和のために情熱的に活動しています。流派という小さな分派の中でダダだ、キュビズムだといっていられないほどの大破壊と新しい社会価値の建設の必要があらわれています。第一次大戦で旧い王権はとりのぞかれたが、第二次大戦のあとにはファシズムの根となる世界経済の上での独占力を民主化するという大課題がおこっています。だらか日本におかしな形で一時流行したサルトルにしろ、彼の実存主義は第一次大戦後の心理分析主義のような形でヨーロッパ文学を支配することはありません。第二次大戦後の世界文学は、その進歩的な発展的な面では、大局的にそして決定的に民主と平和の方向をとっています。第二次大戦によって利潤をうけた人々はその利潤を失うことを欲していないために、戦争挑発も行われているのが現実です。しかしヨーロッパや東洋の荒廃した国々の誰がこの上にも戦禍を重ねたいと思っているでしょう。真実に求められているのは平和です。平和を可能にする世界の民主化の確立です。このことは、こんどの大戦後の世界に、民主主義婦人同盟ができて千百万人の婦人を組織していること、世界労働組合連合が数千万の労働者を組織していること、民主主義政党の発展、ユネスコの計画など見てもよくわかります。
 日本人民の新しい社会生活と文学の方向も当然この世界の大きい流れにそったものでしかあり得ないのは明白です。だけれど、なにしろ日本はひどい封建性と軍国主義の残りが強いから、たとえば文化面における戦争協力の責任追求も、実にいい加減なものだし、追求されたそれぞれの文学者たちがまた一向本質的な痛痒を感じないで、武者小路実篤のように平気で、その平気さをブルジョア文壇から公認されているか、さもなければ石川達三のように日本が又再びあやまちを犯すことがあれば、自分もそのあやまちをくり返えすだろうと、暗に又の機会を期待しているような心持の人がユネスコの役員になったりしています。これらは日本の中において旧勢力と抱き合っているばかりでなく、世界のファシズム的傾向に内応する要素で民主化にとって害悪のあるものです。
 日本がこういう状態だということは、世界のどの国にもまして民主化と民族の自立のための努力が求められているということにほかなりません。この三年間の成行をみて、日本の民主化と人民的な自立が、どんなにはぐらかされごま化されてきているかということについて腹立たしく思わない人があるでしょうか。石の上にも三年という諺がある。吉田茂はこの諺を満足をもって味わっているだろうと思います。一九四五年の暮頃、彼を先頭とする特権者の一群は一種の茫然自失状態にありました。彼らの自信はくずれていた。ところが一九四六年の下半期になると、吉田は記者会見で日本に対する占領政策が自分もだんだん納得できるものになってきたと語った。そして今はどうでしょう。石の上にも三年待った甲斐があらわれていないでしょうか。この三年間に、どぶ水が溢れるような汚さと早さで日本の生れ変ろうとする社会を毒したあらゆる非民主的な政策と昭和電工事件その他の醜状の積み重りの上に乗って、彼は今日首相となりました。

 今日午後の討論ではくりかえし新日本文学会の活動方針が人民生活と結びついたものでなければならないといわれました。人民の中へ、という表現もつかわれました。けれども私たちが生き、そしてそこから生もうとしている文学の本質を考えたとき、ロシアの十九世紀のインテリゲンチャのように人民の中へということも何だか変ではないでしょうか。私たちがとりもなおさず人民の一部分じゃあないのでしょうか。戦争中のことを考えてみればよく分ると思います。日本の文学者が残酷な軍事権力のもとに果して一般人民とちがうどんな言論の自由と文学の自立と生活の安全を保証されたでしょう。文学は文学そのものとしての存在を抹殺されたし、文学者は戦時徴用者として文学の能力を戦争宣伝に使われたことをよもや否定する人はないでしょう。このことは、洋服屋が徴用されて平和のための衣服の製作をやめ、殺されなければならない人の服を縫わされたこととどう違うでしょう。彼の使ったのはミシンであり、文学者が使わされたのはペンであるということに、悲劇はますます大きいと思います。我とわが頸をおるような仕業を強いられたということは、当時の日本のすべての人民的悲惨のどんな特等席であり得たでしょう。いわゆる人民が上官から憲兵から特高からその肉体の上にくらったビンタとちがったビンタが、文学者のために用意されていたでしょうか。どんなちがった監獄に作家が入れられたというのでしょう。
 谷川徹三の「文化平衡論」という主張が戦争拡大する前後の時期に書かれました。この主張は表面では過去の文学と文化の特権的性格を批判したものであったけれども、本質では文化・文学の理性、批判性、自立性を彼等のいわゆる素朴なる大衆の低度に解消してしまう方法でした。正月元日に明治神宮の参道をみたす大衆の中に、インテリゲンチャは何人まざっていたかと当時の知識人を叱責した彼のその情報局的見地に立ったものでした。
 日本の降伏後、言論の自由、思想と良心と行動の自由があるようになったはずです。でもその現実は職場の人が日常の中によく知らされています。その全く同じものを民主主義文学者は、自分の職場において知っています。紙のないこと、割当が商業主義、事大主義に支配されている上に、この頃は民主的出版物への割当削減があらわれていること。相も変らず紙屑のようなエログロ出版が横行していること、文学者に対する税がお話にならない高率で、殆ど収入の八五パーセントもとられること、その上政府は文化財である故人の著作権に対して勝手な収入予想をして税をかけようとしていること、それらはただ文学者の問題だといえるでしょうか。文化・文学が人民の社会生活の共有財であり、その創造は一つの文化生産部面であるというしっかりした認識こそ、人民の民主生活の実際の足がかり、ファクターではないでしょうか。文化を人民の当然の共有財と理解してその民主的効用を求めないなら、いますべての男女学生が働きながら学べる教育のシステムを要求していろいろ骨を折っている意味もはっきりしなくなってしまいます。
 インフレーションは勤労者の生活をおしつけていると同じように、民主主義文学における活動家、作家の生活をおしつけ、文学の発展を妨げています。一家を背負った民主主義作家が、生活のために自身の発展と生長のためにはむしろよくないほど原稿を書いてゆかねばならない場合は、至るところにあると思います。「暗い絵」の作者が、この二年ばかりどうしてあんなにどうどうめぐりをしていなければならなかったでしょう。「暗い絵」に示された課題の発展よりもむしろ課題そのものの枠内で、その壁の内側を手のひらでさわってぐるぐる廻っているような状態におかれたでしょう。一作毎にそこから脱皮してゆく足どりをしめさず、むしろ書きすぎたのは何故でしょう。もちろんそれはこの作家の生長過程で書ききる必然があったでしょう。しかし一方に、ジャーナリズムの要求がその作家の経済的必要に答えるということもありましょう。乱作で作家は生長しないのだから。そしてそれを理解しないこの作家ではないのだから。これは失礼な引例かもしれませんが、この作家の発展に期待することが大きいだけ私たち一般の市民的経済状態の悪さと、ジャーナリズムの商業主義――これも要するにインフレーションの結果だけれど――をしみじみ思うのです。私たち自身を、民主主義作家としてはっきりブルジョア文学者と区別した全存在において理解し、新日本文学会の運動をブルジョア文壇のしきたりから解放されたまるで違った人民の文学建設のための統一的な運動としてつかんだ時、文学者生活と人民生活とのブルジョア文学にあらわれたような離反においては考えられないと思います。だから我々がもし「人民の中へ」というならば、それは作家自身の人民的立場についてのより強くはっきりした自覚へ、という意味しかあり得ないと思います。そしてこの意味でなら工場に働く人々、農村に働く人々に向っても、人民の中へということはいわれます。何故なら、私たちの生活感情にしみついている半封建的なブルジョア文化と文学の影響は実に深くて、通俗性・卑俗性と人民的な意味での大衆性とは何時もこんぐらがりがちです。さもなければ、どうして組織された労働者が、組合図書には民主的出版物を買い入れるけれども、自分の小遣でこっそり個人的にロマンスだの何だのというものを買ってよむというようなことが起るでしょう。
 よい文学上の仕事をしたいというひとすじの真剣な欲求を具体的につきつめてゆくだけで、わたしたちはいや応なしに人民の経済・政治闘争そのものに入らざるを得ないのです。
 文化といい文学というとき、人民生活の民主的な基礎が確立されていず、中野さんが前の報告で云ったように絶えず愚民政策が行われている日本では、とかく人民生活の表現としての文学より、過去のブルジョア文学の観念のように何か実生活から離れたものとして、趣味とか、せめてそこには美くしいものを求めたい気分で扱われる危険がつきまと
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