っています。そして、その美しさの内容は、古いままのこされている。このことは、文学サークルに集る働く人々の書いたもの、詩や小説にもしばしばあらわれていることは、皆さんが十分知っていらっしゃいます。去年の第三回大会に文学サークル協議会の報告は、詩と小説の面でこの点にふれていました。国鉄の雑誌や労働新聞に集る沢山の応募原稿の選をした方々にもこれはよく分っています。
働く人々が文学作品を読み、味わい、批評するその過程に、いわゆる文学をよく知っている人が自然指導的な発言をするようになるわけですが、その時たとえその人が労働者でも案外文学に関してはブルジョア文学の文学的素養の範囲で文学的[#「文学的」に傍点]に批評を組みたてる傾きがなくはないと思います。さもなければ、いわゆる民主主義文学理論というものの型に従っている場合もある。
こんにちの午後の討論では、作家と読者の直接な結びつきを要求するいくつかの発言がありました。この発言の本質は、先程の作家と人民層とのより緊密なむすびつきを求めていることだと思いますが、発言の中にもあったように、サークルその他へ作家がもっとまめに出席するような機動性が求められていることでもあります。もう一歩深めてこの問題を考えると、作家と読者の直接な結びつきを求めることの中には、作品とそれに対する批評と読者大衆との生きた関係についての問題が含まれているようです。
第三回大会の時にも、民主主義批評家の評論活動がむずかしいということや、批評が作品をもりたてないということや、批評活動に民主主義文学運動としての統一性が欠けていることなどが検討されました。一年経った今日の大会でも批評の問題は、すっかり解決されきっていないようです。
大体民主主義文学運動における批評または評論活動の一番大事な要は何処にあるでしょう。民主主義文学運動の批評が、すくなくともブルジョア文学における観賞批評でないことはあきらかだし、人民の民主主義的課題という広い基盤に結び合わされながら、文学の独自性において活動しなければならないことも分り切ったことだと思います。世界文学は、プロレタリア文学運動が文学作品の価値評価を主観的な内在的な評価のよりどころから解放して、もっと客観的な社会的な外在的なものにしたことではじめて本質的飛躍をとげました。日本では、この文芸批評の正当な伝統が戦争によっておそろしく中断されています。戦争中評論について勉強してきた人々は、プロレタリア文学のあるままの歴史さえも手に入れることはできませんでした。手に入るものは、プロレタリア文学運動を何処かでゆがめていわゆる自己批判したものや、反対的立場から観察したようなものが多くて、熱心に、理性的な発展的文学の方向をさぐっていた人々は、まるで屑糸の中から使える糸をぬき出して縫物をするように、銘々の生長をおしてきています。いろいろの角度が散在しており、いろいろの個性が作用し、その角度と個性に戦時が影響している。そのために去年の大会の時もとりあげられたように、日本の民主革命と民族の自主的発展の課題に根をおいて、堂々とブルジョア文学の動き、民主主義文学の動きをひっくるめてその相互関係を解明したような批評活動は、不足でした。日本のこんにちには、かつてのベリンスキーがロシア民衆のために書いたような文芸評論が必要です。それは民主主義文学にたずさわる者のためばかりでなく、人民の文化とは何か、人民の文学とは何か、人民の精神の歴史とは何かということを、あらゆる人が自身の基本的な人権の一つとして、人間としての誇りのためにつかみなおすためになくてはならないものです。この点では、新日本文学の業績はまだ十分といえないと思います。
たとえ民主主義文学の基準に立っているにしろ、一作家、一作品の枠に止まって、その作品、その作家ばかりを細かくつっつきまわして、その作品、その作家が民主主義文学の全体の中で、どういう意味と価値をもった存在であるかということを読者に理解させてゆくことができなければ、やっぱり局所的であり、個人主義的な観念にしばられた文学感覚であるといえると思います。
さっき横浜の方から宮本百合子の作品の話がでて、宮本百合子の作品は、多くの場面で話題になっているが、松田解子の作品については多く語られない、松田解子の文学の庶民的なよさは周囲の初歩的な文学愛好家のグループによい影響を与えているのにとの話がありました。この話は作家と作品と批評との関係にふれて面白いと思います。民主主義文学の批評の方法は、この話にあらわれているようなばらばらの点をつなぎ合せて民主主義革命に献身する大衆の共通な文化財、イデオロギー的武器とすることではないでしょうか。
去年の大会でも云われた通り、それぞれの作家は、それぞれとしてかなりの仕事をしています。まして今年は、働く人々の中から幾人かの新しい作家が生れて、我々の収穫は決して貧弱だとはいえませんでした。民主主義文学運動として必要なのは、批評活動が活溌にそれらの作品同士のもっている意味や連関性をつむぎ合せて、作品活動の全面をその多様さ、変化において民主主義文学の成果として示すことです。そのようにして綜合し整理し、価値を明らかにした批評は、昔のロシアでベリンスキーやチェルヌイシェフスキーの文芸評論が、解放運動の強力な一環として果した革命的役割を果すはずです。蔵原惟人の評論も、佐多、松田、壺井、宮本の小説も、新しく書き出した人々の作品も、すべての労作がその独特さと共にもっている民主的文学としての意味において組織的にとりあげられた時、私たち自身の心をつかまえてゆすぶるような古きものへの闘いの意気が感じられないでしょうか。こんにち若い執筆家として評論や小説をかいている人々は、終戦まで蔵原惟人の名を知らず、宮本、中野、壺井その他の人々の名さえ知らなかった、という例が少くないことを考慮すべきです。
労働者に役立つ文学であるかそうでない文学であるかということは、その文学が日本の民主主義建設の過程にどんなプラスをもっているかいないかということで決定すると思います。文学は文学です。ビラではない。ポスターでもない。労働者の生活を描いたというだけで、またその作品を働く人が書いたからというだけで民主主義の文学であるということは云えないし、その階級にとって値打あるものとも云えません。文学の階級性というものについての以上のような自然発生的な考え方は、ここにいらっしゃる江口渙さんなどもよく御存知のように、日本のプロレタリア文学運動の初期、まだ無産者の文学と云われて宮嶋資夫その他が小説を書き出した頃の現象です。その後労働者といい、無産者という一般的な社会層の中に、プロレタリアとして歴史を推進させてゆく自覚ある労働者部隊の革命的な任務が、はっきりさせられると一緒にプロレタリア文学は、アナーキストの権力否定の文学とも違うし、貧窮文学でもないし、下村千秋のようなルンペン・プロレタリアートの文学とも違うことを知りました。
労働者の役に立つ文学が単なる宣伝文学でも啓蒙小説でもないということは、真面目な読者自身がよく知っています。例えば一つのストライキを描いた作品が、文学として働く人の人間性の中に受け取られるのは、決してただ働く者ならば経験している場面がとりあつかわれているからでもないし、はらはらする筋の面白さからだけではありません。或る職場に働いて生きる人々が生活の必要から出した要求を、経営者側はどのように扱ったかということでこれまでだって十分知っていた筈の働かせる者と働く者との関係が、その顔つきと声と体温との具体性によって実感され、字で読んで分っていたとは違う人間感銘によって自分の人間としての社会的存在の場処を対決させられる。そのなまなましさ、その同感によってその作品は、読者にその人の属する階級を自覚させます。ストライキの間に起ってくるいろいろの家庭問題、婦人労働者がストライキ委員会につめきることで、親の考えとぶつかる過程、或は良人とのむずかしいいきさつ。職場仲間の離合、権力との闘い。それが作品の世界に生きる人々の心の問題としても深く掘り下げられ追求され展開して行ったときに、読者はその作品をよむことによって勇気を与えられ、なぐさめられ、豊かにされ、自分の経験を再びかみなおし、階級者として成熟してゆくモメントとなります。
一昨年の十月から昨年の二月まで、労働攻勢が強くて二月にその頂点をきわめました。この期間日本中にストライキの波が高まり、賃金は上りました。ところが二月のゼネストの計画が流れたあと、何故組合内にいわゆる物とり主義[#「物とり主義」に傍点]に対する批判ということが始ったのでしょう。それにひきつづいて、組合活動における文化面の重要視がおこったのは何故でしょう。
インフレーションの速度にくらべれば、あの頃労働者が闘い取った賃金は幾らのものでもなくて、今日生活窮乏は一般的です。それだのに何故物取り主義などという索寞とした自己批判が起ったのでしょう。経済闘争だけで終ったとき、人々の心に湧いた人間としての物足りなさ、やったことが間違っていないことはたしかでも、なお一抹のものたりない思い、充実しない感じがあって、こういう声を生んだとしか思えません。それは労働者の正当な雄々しさをかげらせる気分でした。働く者の当然の必要から要求してかち取ったものが、何で物取り[#「物取り」に傍点]でしょう。闘い取った幾らかの金が一人一人の働く人を人生的に何処かでうるおしたことがはっきりと自覚されるか、あるいは、そのようなたたかいそのものの人民的な歴史の上での意味が、とっくりのみこめて肚におさまるように政治的に導びかれなかったということ、経済主義一方では人間性はもちきれないという深刻な事実を示していると思います。もしここに一人の作家があってあの当時の経済闘争の中に揉まれる働く人々をとらえ、その闘争と闘争の過程におこるすべての人間的、社会的な問題を人民解放のひとこまとしてとりあげて描いたとしたら、二月ののちに広汎に起った物取り主義という批判そのものさえも当時あったよりはもっと複雑に労働階級を政治的に豊富にする作用をもち階級性を強める新しいバネとして受け入れられたでしょう。
民主主義文学の負っている課題は、実に大きく複雑です。民主主義文学は労働階級の動きを表面から模写してゆくのではなくて、すべての勤労者と小市民・インテリゲンチャが歴史の中で、一人一人の必然の過程を通ってどのように新しい推進力として民主革命に参加してゆくかという物語の語り手でなければなりません。ブルジョア文学は一般人間性について語りました。個性と個々の自我について語りました。そこまででブルジョア文学の本質的発展は止っている。民主主義文学は世界の歴史におくり出されて、ブルジョア文学の内部では大ざっぱにしか理解されなかった一般人間性から、人間の階級性を描き出すことを可能にしたし、更にはかなく弱く権力に踏みにじられる存在でしかあり得なかった個性と、個々の自我とを、複雑多様な階級の性格をなす要因、階級的な自主性・独自性としての自我に拡大再組織してゆく可能性を許されているものです。そしてこの可能性は我々が日夜の努力によって、それを実現するかどうかということにかかっています。
民主主義文学の任務を私たちの一人一人が、以上のようなものとしてしっかり腹に入れた時、はじめて私たちの民主主義のための全闘争が本当に新しい人間らしい主張として、自分にも納得されると思います。中野重治が、ファシズムとの闘いに関する報告の中でこのファシズムに対する闘いということは、まず第一に、私たち一人一人がそれを自分の問題として、日常生活の中に納得することが必要だといった意味がここにあると思います。
こうみて来ると、民主主義文学の創作方法についていろいろ云われているその問題も自らはっきりしてくると思います。日本の社会には、まだ社会主義が建設されていないのだから、今のところ勤労者的リアリズムという程度
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング