課題そのものの枠内で、その壁の内側を手のひらでさわってぐるぐる廻っているような状態におかれたでしょう。一作毎にそこから脱皮してゆく足どりをしめさず、むしろ書きすぎたのは何故でしょう。もちろんそれはこの作家の生長過程で書ききる必然があったでしょう。しかし一方に、ジャーナリズムの要求がその作家の経済的必要に答えるということもありましょう。乱作で作家は生長しないのだから。そしてそれを理解しないこの作家ではないのだから。これは失礼な引例かもしれませんが、この作家の発展に期待することが大きいだけ私たち一般の市民的経済状態の悪さと、ジャーナリズムの商業主義――これも要するにインフレーションの結果だけれど――をしみじみ思うのです。私たち自身を、民主主義作家としてはっきりブルジョア文学者と区別した全存在において理解し、新日本文学会の運動をブルジョア文壇のしきたりから解放されたまるで違った人民の文学建設のための統一的な運動としてつかんだ時、文学者生活と人民生活とのブルジョア文学にあらわれたような離反においては考えられないと思います。だから我々がもし「人民の中へ」というならば、それは作家自身の人民的立場についてのより強くはっきりした自覚へ、という意味しかあり得ないと思います。そしてこの意味でなら工場に働く人々、農村に働く人々に向っても、人民の中へということはいわれます。何故なら、私たちの生活感情にしみついている半封建的なブルジョア文化と文学の影響は実に深くて、通俗性・卑俗性と人民的な意味での大衆性とは何時もこんぐらがりがちです。さもなければ、どうして組織された労働者が、組合図書には民主的出版物を買い入れるけれども、自分の小遣でこっそり個人的にロマンスだの何だのというものを買ってよむというようなことが起るでしょう。
 よい文学上の仕事をしたいというひとすじの真剣な欲求を具体的につきつめてゆくだけで、わたしたちはいや応なしに人民の経済・政治闘争そのものに入らざるを得ないのです。
 文化といい文学というとき、人民生活の民主的な基礎が確立されていず、中野さんが前の報告で云ったように絶えず愚民政策が行われている日本では、とかく人民生活の表現としての文学より、過去のブルジョア文学の観念のように何か実生活から離れたものとして、趣味とか、せめてそこには美くしいものを求めたい気分で扱われる危険がつきまと
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